第7話 英樹の秘密

 英樹は家に帰ると、トイレに直行した。ガタンと力強くドアを閉め、鍵をかける。耳朶に触れた嬌声、恍惚とした表情、それらによって喚起された欲望を、それらを忘れてしまう前にこすりだしてしまいたかった。

 単純な手の動きを繰り返すことで、血液にのった甘い快感が温度の上がった全身にめぐっていく。それは英樹という人間の中枢である脳にたまっていき、あるとき爆発する。発生する快楽は、このために生きていたんだと体中が叫んでいるように感じるくらい、気持ちがいい。


 こんなに出したのは初めてだ。

 そう思いながら、レバーを小のほうへ傾ける。出てきた水が渦をつくって、英樹の欲望の跡を洗い流していった。

 トイレを出ると、英樹はソファに腰を下ろした。真っ黒なテレビ画面に映る自分と目が合う。すぐに目を逸らす。

 由紀子は今頃なにをしているのだろうか。

 自らの手で汚したばかりだというのに、そんなことを考えてしまう自分になんだか笑ってしまう。 


 英樹が子どもしか愛せないことに気付いたのは、高校二年生のときだった。

 中学三年生のあたりから、自分が少し周囲とずれ始めたことには自覚していた。一言で言えば、その時期に英樹は恋愛に興味がなくなった。これまでは仲のいい男子生徒と集まると必ず、誰がかわいいとか、そういった話で盛り上がっていたのに、次第に友人の話すかわいいについていけなくなった。

 とはいえ、それは個性と呼べるほどの穏やかなもので、友人はおろか英樹もまったく気にすることはなかった。中学生活は何事もなく、そよ風のように過ぎていった。

 問題が起きたのは高校に進学してからだった。


 骨格が成長していくにつれ、英樹の顔は整っていった。テレビの中の俳優のような顔立ちには至らなくても、サッカー部でなおかつ高身長だったことがあいまって、クラス内外を問わず女子から好意を向けられるようになった。

 しかし、中学と変わらず恋愛に興味を持てなかった英樹は、向けられる好意を無下にすることしかできなかった。

 告白されるたび、英樹は想像しようと努力した。目の前にいる女子と付き合い、寄り添い、夜を共にして、いつかは結婚して、子どもを産んで――。今思うと高校生の恋愛にそこまでの思索は必要なかったが、真面目な性格だった英樹は、ひとつひとつの好意に対して真剣に向き合おうとしていた。

 でも、奇妙にも、と言えばいいのだろうか、どんな女子とも未来を共に歩んでいくイメージがわかなかった。想像しようとするたび、靄がかかったように思考が遮られ、なんの感情も湧かない地平に着地してしまう。相手に魅力を感じていないのに付き合うのは失礼だと思って、告白は毎回断った。

 ひとつの仮説が英樹の中にはあった。けれど、それを認めるのは勇気を必要とした。


 高校一年生の夏休み、ひょんなことからボランティアに参加することになった。小学生のキャンプ活動にボランティアとして参加することになった。教員志望だったサッカー部の友人に誘われたのだ。

 一日目、キャンプ場近くにある小川で、小学生たちと水遊びをした。それがいけなかった。

 当然、小学生たちは水着に着替えた。服に包まれていた体の表面が、迷いなく日に晒された。 

 英樹はひどく興奮した。

 その平坦な体つきに、これ以上ない魅力を感じた。頭の頂から足のつま先にかけて、平坦でふくらみがない。かわいい、という感情に、久しぶりに囚われる。もっと子どもたちの身体を見たいという欲望が、ガラス窓を割るように英樹の心に侵入してきた。


 夜、テントでボランティアの仲間たちが歓談するなか、英樹はひとり抜け出して自然の空気を吸っていた。

 どれだけ拭おうとしても、昼間目にした光景が網膜に焼き付いたかのように消えてくれない。むしろ、忘れようとすればするほど、身体は反発するように燃え上がっていく。冷たい空気に触れても、鎮静することはない。


 ざざ、と背後で物音がした。気になって見てみると、男の子がひとりうずくまっていた。たしか、周囲とうまくなじめず孤立していた子だ。水遊びのときも、ひとりぼっちで水鉄砲をいじっていた。英樹は男の子の水着姿を思い出す。胸には小さくて丸っこい乳首がふたつくっついていた。

 そろそろ就寝時刻なのに、ここで何をしているのだろう。もしかしたら、他の子たちの会話に混ざることができず、自分と同じようにテントを抜け出してきたのかもしれない。背中は寂しそうに曲がっている。

 そばにいてあげたい。

 そう思って声をかけようとすると、男の子がうずくまる地面に液体が広がっているのが見えた。

 漏らしている。

 その事実が眼前に現れたとき、英樹の心はふたたび燃え上がった。大切な糸がはち切れてしまったようだった。


 男の子に話しかける。大丈夫、誰にも伝えないし、明日には乾いているから。まずは汚れたズボンを脱ごう。

 男の子がズボンを下ろす。パンツも一緒に脱いだ。皮をかぶったそれが外気に晒される。尿で先端が濡れていて、いやらしい。

 濡れてるから拭いてあげるね。

 ポケットからティッシュを取り出して触ろうとすると、男の子とは小さな声でつぶやいた。


 ――いや。


 英樹は我に返った。

 自分はいま、いったい何をしようとしたのだろう。男の子の股を触って、それで何をしようとしていたのだろう。

 濡れた部分は男の子が自分で洗った。英樹はそれを見ながら、全身を呑み込むような恐怖に襲われた。その日はまったく眠れなかった。


 翌日、重い頭を抱えながら英樹はボランティア活動に熱を入れた。子どもに触れたい欲望が、また息を吹き上げていた。

 しかし、英樹が近づこうとするたび、子どもたちは怯えた。すでに身長が百九十センチを超えていた英樹は、子どもたちに怖い大人だと見做されていた。

 そのときはまだ子どもたちが自分の大きな身体を怖がっていることをわかっておらず、子どもたちが自分から遠ざかっていくたび、自分の内面で燻る欲求が否定されているのだと感じた。


 手を繋ぎたいと思った。高校の女子たちとのデートは楽しいと思えなかったのに、子どもたちとデートする想像のなかで、自分は喜びにあふれていた。もっと先のこともしたくなった。人生で一度も誰とも触れ合わせたことのない部分を、子どもたちと触れ合わせてみたかった。

 子どもたちはそれを拒絶するように、怯えた表情で遠ざかっていく。

 英樹は自分の欲望が気持ちの悪いものだと思い知った。子どもに恋愛感情を抱く人間は、今まで関わってきた人間の中にはいない。そういった人間はいつも、テレビ画面の中に顰蹙を買いながら現れた。


 どうしてこんな罪深い欲望を自分は持ってしまったのだろう。


 性犯罪が報道されると必ず、そんな疑問が湧いた。

 それと同時に、英樹は自分が何かに選ばれたような気持ちになった。

 初めて神様を思った。無宗教のはずなのに、神さまという存在に思いを馳せずにはいられなかった。小児性愛者と自分は言うらしい。どうして神さまはそんな存在に自分を選んだのか、訊いてみたかった。理不尽に対して怒っているのではなく、戸惑う自分に明確な答えを与えて欲しかった。


 小児性愛者という自覚が芽生えてからは、英樹は人が変わったように内気になった。とにかく罪を償わなければならないと思った。こんな気持ち悪い存在に生まれてしまったのだから、人と関わるべきではない。欲望を満たそうと子どもに近づいてはいけない。真面目な性格はきちんと理性を働かせ、英樹を人と犯罪から遠ざけた。


 血でつながった両親は、唯一遠ざけようとしても遠ざけることのできない存在だった。こんな自分を産んでしまったことが申し訳なくて、心配をかけないよう、サッカー部を引退した後は勉学に力を注いだ。無事、難関とされる大学に進学することができた。喜ぶ両親の表情を見て、すこしだけ罪滅ぼしができたような気になった。


 大学でも基本的には人との交流を避けた。サークルにも所属だけしてほとんど参加しなかった。寂しさは学業で紛らわせた。転機が訪れたのは、大学二年生のときだ。


 早苗という女性と英樹は出会った。


 そろそろ、夕飯をつくらなければ。明日も朝早くから出勤しなければならない。

 キッチンに入ろうとしたとき、インターフォンが鳴った。のびやかな音が響く。

 一瞬、玄関から早苗が帰ってきたような気がした。けど、そんなわけなかった。インターフォンの音は、となりの部屋から聴こえてきたものだった。

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