第6話 由紀子の秘密
疲労の溜まった身体をベンチにあずける。雨風にやられてボロボロになったベンチは、隣に由紀子が座っても、きちんとベンチとしての役割を果たしてくれていた。
英樹は真上を仰ぎ見た。もう日が沈んでいる。田舎の夜空は砂を豪快にかけられたのではないかと思うほど大量の星々がきらめいている。その光はぼんやりと神社を色づけてくれる。
由紀子に嘆願されたあと、英樹はひとまず、静かに泣き崩れる由紀子のそばにい続けた。やがて落ち着くと、由紀子は泣き腫らした目で言った。
「ごめんなさい」
何に対する謝罪なのかはわからない。うさぎを勝手に持ち去ったことに対してかもしれない。裂けたうさぎの死体に対してかもしれない。これから口にする英樹への頼みごとに対して、という可能性もあった。
「うーちゃんを……埋めてもらってもいいですか」
英樹はうさぎに段ボールをかぶせると、学校へと急いだ。由紀子がうさぎ小屋を掃除するときに出入りしていた物置から、シャベルや軍手を持ち出して、また裏山へと帰ってくる。
神社裏に適当な場所を見つけて穴を掘る。ネット情報いわく、死体を埋めるには少なくとも一メートルは掘らなければいけないとのこと。かれこれ一時間以上ふたりでシャベルを動かした。
ようやく穴を掘り終えると、英樹は軍手をはめ、段ボールごとうさぎをていねいに埋葬した。山に無許可で埋葬するのは法律違反の可能性があるが、持ち主不明の土地らしいので、たぶん大丈夫だろう。においが広がらないよう、盛り上がるくらい土をかけておく。
作業を終えても、そのまま帰るわけにはいかなかった。あんな現場を目撃してしまった以上、それについて何も言及しないのは不自然だ。そういうわけで、神社のベンチに座った。
帰りが遅くなることは、もう由紀子の親に伝えていた。うさぎを埋める前に、英樹の携帯から電話をかけた。大切に育てたうさぎが亡くなったこと、そのうさぎを由紀子が自分自身の手で埋葬したいと思っていること、そのために英樹といま一緒に山にいることを説明した。
深まる夜の中で、黒目だけを動かして隣を見る。暗くて表情をはっきりと確認できない。スカートの上には両手がのっていて、左手は右手の甲を掴んでいる。それは、これからの出来事を受けとめるための防御姿勢のように見えた。
英樹は大きく息を吸って、吐く。その音をわざと聞かせる。始まりの合図として。
「俺は学校の先生で、内野は俺の生徒だ」
由紀子の左手にぐっと力が入る。
同時に、自分の聴覚が音を拾う準備をしたのがわかった。
「先生っていうのは、生徒のために行動するのが仕事なんだ。俺は未来ある子どもたちのために何かしたくて、先生になった」
ざわざわ、と周囲がうるさい。ほんのすこしの風が吹いただけで、木々たちはあたかも共謀しているように踊り出す。草場に隠れた鈴虫たちも、自分たちの存在を忘れさせないとでも言わんばかりに高い声で鳴いている。星からは相変わらず光の雨を降らしている。
まるで自分と由紀子、ふたりだけの世界を、自然そのものが監視しているように英樹には思えた。
だからだろう。本当の気持ちは伝えられなかった。
「もし内野が悩んでいるんだったら、話してほしい。俺にできることはさせてほしい。どうしてあんなことをしていたのか、聞かせてくれないか」
自分の語りかけは成功したのだろうか。由紀子が話しやすいようにレールを造ったつもりだが、上手にできただろうか。
不意に、神社の本殿が目に入った。自然の生命たちが騒ぐ中、それは一言も発することなく鎮座している。扉の奥に誰かがいて、自分を見ているような錯覚に陥る。
「小学四年生のときからなんです」
英樹は意識を左耳に移動させる。
悲し気な色を含んだ語りに耳を澄ませる。
「ある日、たまたまクモの巣を見つけて、」
たしか神社の本殿にも、大きなクモの巣が張られていた。
「ちょうど、クモが蝶を食べようとしているところだったんです」
暗くて見えないが、今も獲物をじっと待ち構えているはずだ。
「蝶は頑張って羽を動かして、それで逃げられたんですけど」
鈴虫の鳴き声がより一層大きくなる。規則正しいいくつもの鳴き声が、不規則に重なり合っている。
「そのことがずっと頭から離れなくて。そのあと授業を受けるときも、帰ってからも、寝る前も、なぜかずっとそのことを考えてしまって……気付いたら想像してるんです。クモに食べられる蝶の姿を」
一瞬、この場にいるすべての鈴虫が押し黙ったような気がした。
「次の日、我慢ができなくて……捕まえた蝶をクモの巣にくっつけて、食べられるところを観察したんです」
気のせいだった。鈴虫はひっきりなしに今も鳴いている。
そしたら、と由紀子は神妙な声を漏らす。
「私、なんだか身体が熱くなったんです」
冷たい。
「それ以降も、よくクモの巣に虫をくっつけて観察しました。そのたびに、身体が熱くなるんです」
一滴の汗が自分の首筋を流れたのがわかった。
「気付いたらどんどんエスカレートして、自分で虫の体をいじったり、その……殺したり、してました」
ばさばさと、羽を広げた数羽の鳥が、逃げるように飛んでいく。
「たぶん私は、虫や、動物の体をいじるのが好きというか、趣味というか……そんな感じなんだと思います……」
英樹は「好き」と「趣味」、ふたつの言葉を心の中でなぞる。
今日由紀子を見つけたときに聞こえた嬌声が鼓膜に蘇る。好きだから、趣味だから、自分が大切にしていたうさぎの体をいじっていたその姿は、決して好き、という言葉でも、趣味、という言葉でもくくれないはずだ。もっと大きなもの、人間の心や身体、人生そのものを支える根本的で原始的なものによって由紀子の身体は熱くなっているのではないだろうか。
しかし、由紀子はそのことに気付いていない。まだ中学一年生だから、まだ成熟しきっていないから、それが何であるかを知らない。
「……おかしいですよね」
由紀子の声音に、諦めの色が多く混ざる。
「わかってます。一度、お母さんに見られて、すごく怒られました。命を大切にしなさいって」
由紀子がしゃくりあげる。また泣きそうになるのを頑張って我慢している。
「けど……たまに衝動が抑えられなくて」
英樹の胸に熱いものがこみ上げてくる。
衝動。
カァ、とカラスが鳴いた。
英樹は自分の呼吸に聴覚を集中させる。衝動から目を背けるときに、必ずとる行動。
「今日も、うーちゃんの死体を見たときに同じような感じになって……それで……」
由紀子は黙り込んだ。あとのことは、英樹が目にした光景が饒舌に語ってくれた。
濃くなる夜の深さが重たい沈黙を連れてくる。いまや山の家族は鳴りを潜めている。
この世界にふたりだけしかいないような、そんな気分に浸される。
「俺は、由紀子のことを気持ち悪いとは思わない」
ざざ、と英樹の靴底が地面とこすれた。
「たしかに、普通の人とはずれてると思う。けど、そういう人は世の中にいるんだよ。由紀子以外にも」
「そう、なんですか……?」
初めて希望を見たかのように、由紀子は言う。あぁ、と英樹は深く頷く。
「世の中にはいっぱいいろんな人がいる。逆に言えば、いろんな人がいて良いんだ。だから内野だって悲観することはない」
多様性。
そんな言葉を、英樹は言いながら思い浮かべた。どこかの誰かが、スローガンに掲げていた言葉。
「でも」
その言葉で、この子は救えるのだろうか。
「やっぱり気持ち悪いです……自分がお世話したペットが死んだのに、その死体を切り刻むなんて」
「たしかに、あまりいいことではないかもしれない」
たぶん、動物愛護法に触れている。そうでなくとも、仮に世間に良いことか悪いことかを判断させれば、必ず悪いことと判断されることは明白だろう。
だけど、それがなぜ悪いかを説明できる人間なんているのだろうか。
「もし衝動が抑えられなくなっても、人前でしちゃだめだ。かならず人目のない場所で、やるんだ。それなら誰からもとがめられることはない」
たぶん、頑張って抑えられるものではないから。
そこまでは言わないでおく。
「もしも、何か相談したいことがあったら、絶対に俺に相談しろ。なんでも聞くから」
「どうして」
由紀子が顔を英樹に向ける。英樹も、顔を由紀子のほうに向けた。
「どうして、先生はそこまでしてくれるんですか」
大きな風が吹いて、山全体が叫び声をあげる。
そんなの決まってる。
そう言いたくなる気持ちを英樹は呑みこむ。
「俺が内野の先生だからだよ」
立ち上がって携帯を見ると、もうすぐ七時になろうという時間だった。冷たい空気がシャツの下に忍び込んで肌寒い。もう帰った方がいいだろう。由紀子に風邪をひかせるわけにはいかない。
家まで送る、といって英樹が歩き出すと、まもなく小さな足音がついてきた。暗い足もとを携帯で照らす。神社の奥にいる誰かにずっと見つめられているような気がしながら、英樹は石段を下りていった。
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