第5話 裏山

 結果的に、英樹がうさぎを病院に連れていくことはできなかった。週末を待たずして、うさぎは死んだ。金曜日の朝、巡回していた警備員が地面に横たわって動かなくなったうさぎを見つけたのだ。学校に報告した集まった教員たちで、死んでいるのが確認された。曇り空の日だった。


 教員には朝礼で周知された。同時に、うさぎ飼育はこれを機にやめ、うさぎ小屋も取り壊すことが告げられた。校長の語りによどみはなく、前々から決めていたようだった。小野は終始、にやついているように見えた。残念ながら。そんな言葉から始まった校長の話は、まったく残念そうな響きがなかった。

 生徒の中にも朝、うさぎが死んでいるのを見た人がいるようで、その事実は教室をまたいで学校中を駆け巡っていた。


 昼休み。ようやく時間ができた英樹はうさぎ小屋の様子を見に行くことができた。

 小屋の前には、ベンチに座る由紀子と佳枝の姿があった。二人とも、弁当を太ももの上に広げている。


「内野」


 英樹は由紀子の前に立つなり、頭を下げた。「本当にごめん」うさぎが死んだことを知ってからずっと口にしたかった言葉を、ようやく言うことができる。


「俺がもっとはやく、病院に連れていけば、こんなことには」


 病院のあては見つかっていない。けれど、自分がもっとはやく動き出していたら、もっときちんと病院を探していたら、由紀子を悲しませることはなかったのではないか。そんな悔しさが込み上げてくる。

 由紀子が慌てたようにかぶりを振った。


「せっ、先生のせいじゃないです」


 でも、と喰い下がる英樹に、由紀子は「ほんとうに先生のせいじゃないです」と繰り返す。

 由紀子にしてはめずらしく、はっきりとした揺るぎのない口調だった。

 由紀子を尻目に、英樹は小屋へ足を踏み入れる。

 うさぎは段ボールに入れられていた。

 お腹の中にいる赤ちゃんのような姿勢で、クッションの上にのっている。周囲は、腐敗を遅くするための保冷剤で囲まれていて、耳後ろのしこりは目に見えるほど大きくなっていた。


「ごめん」


 静かに謝って、そっと段ボールを閉じる。

 肩越しに心配を含んだ声が届いた。


「……これからうーちゃんはどうなるんですか?」


 由紀子が小屋の外で、英樹が出てくるのを待っている。英樹は頭が当たらないように身をかがめて、小屋を出た。


「とりあえずは、自治体とかに頼んで遺体を火葬してもらうみたい。前もそうやってたって」


 お金かかるんだよな、という小野の愚痴を、頭が勝手に思い出す。


「じゃあもう、お別れなんですね……」


 由紀子が唇をかみしめる。少しでも慰めようと、英樹は口を開く。


「遺骨をいただけないか、業者の方に頼んでみるな」


 ありがとうございます、そう返す由紀子の声は小さい。

 じゃあ、と言い残して英樹は校舎へ戻った。昼食をとって、午後の授業準備をしなければならない。

 



 問題が起きたのは放課後だった。

 うさぎの死体が消えた。保健室の先生が死体の保存状態を確認しに小屋へ行ったところ、死体を保管していた段ボールごと消えていた。

 そのことを知っても、事態を重く受け止める者はいなかった。小野いわく、消えてくれたほうが業者にお金を払わなくて済むので都合がいいとのことだった。他の教師も、自分とは関係のない話だとでも言わんばかりに、抱えている仕事に取り組んだ。


 とはいえ、学校側として何もしないわけにはいかないらしく、校長は、誰かひとりでいいので探しにいってくれないか、と頼んでいた。もしも学校内のどこか、それも生徒にとって身近なところにあった場合、生徒の保護者から苦情の電話が来るかもしれない。目の届く範囲でいいので探してみて、やるべきことはやったという言い訳を作っておく必要があった。


 英樹は自ら志願した。遺骨をいただけるよう頼んでみると、由紀子と約束している。死体が見つからなければ、そもそも遺骨は手に入らない。


「寺田先生、ほんとうに大丈夫なんですか? 仕事たくさんありますよね?」


 英樹が探しに行くことが決まったあと、隣の席の佐々木が心配そうに尋ねてきた。ならあなたが代わりにやってくれますか。そう言いかけそうになったが、ぐっと押し込んで、笑みを作った。


「大丈夫です。生徒が大切に育てたうさぎです。きちんと供養しないと、生徒に悪いですよ」


 うさぎ小屋の近く、誰もいない校舎裏、使われなくなった旧校舎、その周辺、グラウンドの隅。英樹はできるかぎり多くの場所を探した。しかし、見つけることはできなかった。さすがにこれ以上捜索を続けるのは難しい。仕事は山ほど溜まっている。時計の針はすでに四時半を示している。

 最後に、と、敷地を囲うように並んだ木々の足もとを探す。けれど、黒い土の上に茶色い段ボールは見当たらなかった。あったのは、一週間ぐらい前まで鳴いていた蝉の死体くらいだった。

 蝉の死体。

 もしかしたら、由紀子が持ち去ったのではないだろうか。大切なうさぎを土葬するために。もしくは。

 背筋を冷たい予感が駆け上がっていく。

 転がっていた蝉の死体に背を向けて、英樹は校舎へと戻った。一旦教室を覗いてから、職員室に戻り、電話をかける。


「はい、もしもし?」


 大人の女性の声。由紀子の母だ。担任の寺田だと名乗り、由紀子はすでに帰っているかを訊いた。


「まだ、帰ってきてないです……どこかに遊びに行くような子でもないので、学校にいると思うんですけど、いませんか?」


 それから何回か言葉の応酬をしたあと、英樹は電話を切った。

 学校中を歩き回った英樹は、由紀子と一度もすれ違っていない。教室にも、家にもいない。

 そうした事実は、英樹をあの日の裏山に向かわせる十分な力を持っていた。




 裏山は涼しげな顔をしていた。風が断続的に吹いて、寄っては返す波のように木々がさざめく。周囲には誰もおらず、すんなりと黄色いテープをまたいで侵入することができた。

 日がまだ沈んでいないので、あの日のように携帯のライトを頼りに進む必要はなかった。


 広い一本道に出た。石段を見据えてまっすぐ進む。

 涼しいはずなのに、一歩一歩足を前に出すたびに、脇が汗で湿っていく感触がある。唾を飲み込む音が、やけに鮮明に聴こえる。自分が緊張していると理解するまで、そう時間はかからなかった。

 もしも、と、英樹は考える。

 もしもこの道の先に由紀子がいたら、そのとき自分はどうするべきなのだろう。いや、そうじゃない。本当はそんなことを考えているわけじゃない。この道の先で由紀子を見たとき、自分は何を思って、どうするのだろうか。そんな疑問が、思考の幹にへばりついて取れない。


 階段に足をかける。一段上がるごとに、鳥居が近づく。 

 聴こえるはずのない蝉の鳴き声が聴こえる。かさかさ、という今にも途絶えてしまいそうな音も。それらを塗りつぶすのは、打ち上げられた花火が開花する音、ではなかった。


 ようやく階段を上り切ったとき、何か別の音が聴こえた。記憶の音ではない。たしかにいま、この世界に生まれた音。

 自分でも気づかないうちに、足に力が入っていた。一歩一歩、音を立てずに、音のするほうへと近づいていく。神様がいるとされる神社。その裏。林立した木々の奥に、誰かがいる。

 息を止め、呼吸音を消す。気付かれないように、そっと進む。


「ぁ……」


 人の声、だろうか。


「はぁ……っ……」


 言葉ではない何かを発している。数秒おくれて、息遣いだと認識する。


「あっ……はぁっ…………」


 聴こえてくる音につられるように、心臓の鼓動が強くなっていく。つばを飲み込もうとしても飲み込めない。

 彼我の距離が縮んでいくにつれ、音が鮮明になっていく。音ではなく、声だ。高く、苦しみを漏らすような声は、妙に煽情的で英樹の脳をぐちゃぐちゃと掻きまわしていく。急速に血が沸騰して、暴れるように全身を駆け巡っていく。呼吸が浅くなっている。

 相手は何かに夢中のようで、英樹の存在に気付いてない。

 そこにしゃがみこんでいる彼女に向かって、英樹はなんとか言葉を発した。


「なに、してるんだ?」


 びくり、と彼女の肩が跳ね上がった。それから、全身が凍ったように固まる。

 彼女の体は、彼女が見ている向こう側の世界を覆う蓋のようだった。英樹からはそこで何が行われているのかわからない。見てはいけないものがある気がして、英樹の身体も強張って動かなくなる。

 彼女の背中が動いた。こちらに背を向けた状態のまま、ゆっくりと腰を上げていく。白いシャツに長い黒髪が垂れている。腰にはスカートが巻かれている。紺色のチェックのスカート。英樹が勤めている中学校の制服。

 がっと、彼女の足裏が土を蹴った。走って英樹から逃げようとしている。

 地面に目を落とす。内臓がぎゅっと潰れたような感触がした。頭の中の自分が、震えた口で呟く。

 なんだ、これは。

 なぜか知っている女性の声も聞こえる。頭蓋骨の内側で響いていて、うるさい。


「内野!」


 その声を上書きしたくて、英樹は大声をあげた。

 驚いた彼女が、ぴたりと立ち止まる。ゆっくりと首がひねられ、顔だけがこちらに向けられる。


「せん……せい……」


 内野由紀子。英樹が担当している一年二組の女子生徒。驚きを隠せずに目を丸くしている。

 由紀子がしゃがみこんでいた場所には、死体が転がっていた。昨日まで命を宿していた白い体が、重力に負けてだらんと横たわっている。お腹が引き裂かれて、そこから赤黒い内臓が飛び出している。漏れ出た血は、汚染するように土に染みこんでいた。

 直視すべきではないと直感で理解していても、釘を打ち込まれたように、視線が固定されていた。頭が重い。くらくらとしてくる。次第に吐き気が込み上げてきた。


「お願いです……先生」


 処方薬のような声だった。

 いつのまにか、由紀子が目の前にいる。ぎゅっとスカートを握りしめて、英樹を見上げている。


「誰にも……言わないでください……」


 涙が一滴、やわらかそうな頬を流れていく。それを見たとき、英樹の頭は軽くなった。

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