第4話 うさぎのうーちゃん

 フェンスの手前に植えられた木々が風に揺られて葉音を鳴らす。季節は着実に秋へと歩を進めていて、吹く風は涼しさというよりも冷たさを孕むようになった。ポロシャツの隙間に入り込んでは、体の表面をくすぐっていく。そろそろ着る服を考え直したほうが良さそうだ。

 小屋の中でうさぎを抱きしめている由紀子に、英樹は問いかけた。


「どうだ?」

「……少し大きくなってます」


 由紀子が触れていた耳の付け根部分に、英樹も手を当ててみる。白い毛並みの奥に、うさぎの温かな体温とかたいしこりを感じる。


「先週より元気がないな……」


 先週は英樹が触れるのを嫌がる素振りがあったのに、今日は英樹に触れられるがままだ。


「えさもあまり食べてないみたいです」


 餌入れと水入れの中身をチェックした由紀子が、悲しそうにうつむく。

 英樹は先週、うさぎを診てもらえる病院を探した。しかし、見つからなかった。ほとんどが犬や猫など、ペットとしてよく飼われている動物のための病院で、うさぎというマイナーな動物を扱える病院は、山に囲まれた田舎の町には存在しなかった。町の外には何件かあったが、電車で一時間以上かかり、そう簡単に連れていくことはできない。休日に行こうとしても、当然、向こうは休診日だった。

 どうにかしたいと思って、英樹は小野に相談した。が、まともに取り合ってもらえなかった。


「その件は、寺田先生に任せましたし、寺田先生が解決できないなら、私も解決できないと思いますよ。私のほうが忙しいですし」


 小野は嘲笑うように唇の両端を吊り上げていた。

 仕方ない、自分でやろう。そう英樹は思ったが、由紀子の曇った表情が脳裏をよぎった。


「生徒が大切にしているうさぎなんです。どうにかできないでしょうか」


 そんなことを行っても意味がないことはわかっていたけれど、由紀子のことを思い頼みこむ。悲しい顔は見たくはない。


「そうですね……」


 一瞬芽生えた期待は、すぐに崩れ去った。

 小野の返事は想像以上にひどかった。


「まぁ、うさぎが死んでしまっても、それは十分に意味のあることだと思いますよ。ほら、それで命の大切さを学ぶっていう。これも教育なんですよ」


 小野がうさぎの死を望んでいることは明らかだった。うさぎの治療に学校の予算をかけたくなかったのかもしれない。自らが担当する飼育委員会の仕事を減らすことで、自分の仕事を減らしたかったのかもしれない。本当の理由はわからないが、欲望の免罪符として教育を語ったのは間違いなかった。

 やはり自分がどうにかするしかない。 

 英樹は図書館の本で調べてみた。けれど、しこりがある場合は専門的な治療が必要、という文章以上に有益な情報は見つからなかった。


「病院に行けば……治るんですよね?」


 背の高い英樹を背の低い由紀子が見上げる。きれいな瞳の奥では、不安が水面に浮かぶように揺蕩っている。


「あぁ」 


 本当のことを伝えるべきか、迷う。余計な心配をかけたくはない。


「大丈夫だ。病院に行けば」


 いや、余計な心配という言葉は違う。今のままだと、うさぎは遠くないうちに死ぬだろう。余計な心配というより、英樹はただただ由紀子を悲しませたくない。それだけだ。


「ありがとうございます」


 まだ不安の拭いきれていない顔を由紀子はうさぎに向ける。

 今週末、本当に病院で診てもらえるのだろうか。休日にも診療してくれる病院が見つかるだろうか。見つからなかったらどうする。平日に診てもらう? その場合誰がうさぎを連れていく。自分が時間を捻出する? ただ、それだと他の仕事が……。

 思考が渦を巻いていく。出口のない迷路に無理やり出口をつくれと言われているようだ。考えることを放棄したくなる気持ちを、ぐっとのみこむ。由紀子が今頼れるのは、自分しかいない。


「うーちゃん、大丈夫だからね。きっと治るよ」


 由紀子は優しい手つきでうさぎと触れ合っている。その横顔を見ると、英樹の中で何かが膨らんでいく。いつもの衝動が体の中心をゆっくり這い上がってくる。

 一瞬、花火の音が耳元でよみがえった。同時に、あのときの情景も頭のスクリーンに投映される。

 似ている。たしかに似ている。

 記憶の中の横顔と、いま目と鼻の先にある横顔は、丸みのある輪郭も整った顔立ちもぴったりと重なる気がした。

 なにより、自分が彼女の姿を見間違えるのだろうか、という思いもある。初めて由紀子と会ったとき、英樹は五感を全て奪われてしまったかのような衝撃を感じた。その余韻は今なお脳のどこかで尾を引いていて、忘れることができない。

 記憶を否定する根拠があればひとつだけ。うさぎを大切に飼っている彼女の姿が、あの日見た光景とあまりにも乖離していることだ。


「あ、ユキちゃん、いた!」


 だしぬけに声がした。淀んだ空気を吹き飛ばす軽快な声。


「教室にいないから探したよぉ」


 駆け寄ってきたのは英樹のクラスの生徒、朝川佳枝。由紀子とは対照的な明るい性格の女子だ。可愛らしい小顔には、うっすらと化粧がのっている。厳密には校則違反だが、とくに注意はしない。


「って、寺田先生。二人で何してるんですか?」


 気付いた佳枝が不思議そうに問いかけてくる。


「うさぎの様子を見てたんだ。最近、元気がないみたいで」

「そうなの、ユキちゃん?」

「うん……」


 由紀子の沈んだ表情に、佳枝が言葉に詰まる。


「朝川はどうしてここに?」


 佳枝と由紀子は性格が真逆で、あまり関わりがあるように思えない。


「一緒に帰ろうって約束してたのに、ユキちゃんがどっかにいなくなっちゃったので、探してたんです」

「ごめんね、佳枝ちゃん。どう連絡すればいいかわからなくて」

「いいって、友達だし」


 小屋から出て申し訳なさそうに肩をすぼめる由紀子と、まったく気にせずに闊達としている佳枝は、やはり真反対だ。


「でもやっぱりそろそろ携帯買った方がいいよ」

「そうだよね……お母さんに相談してみるね……」


 一応、校内での携帯使用は禁止されているが、目をつむることにする。

 それよりも二人の関係性が気になった。


「二人ってそんなに仲良かったか?」


 少なくとも一学期は、由紀子に友達と呼べそうなクラスメイトはいなかった。佳枝にしても、他の女子たちと仲良くしていて、由紀子と交流はなかったはずだ。


「私たち二学期の席替えで隣同士になったんですよ。それで色々話したりして。ね」

「そんな感じです……」


 由紀子が控えめな同調を示す。なんとなく由紀子が佳枝のことをどう思っているか伝わってきた。由紀子にとっては、気兼ねなく友達と呼べるような関係ではなさそうだ。


「それで、うさぎは大丈夫そうなの?」


 佳枝が神妙な面持ちで由紀子に尋ねる。うん、と由紀子は小さく頷いただけで、黙り込んでしまう。


「俺が病院連れてくから、大丈夫だ」


 英樹が助け船を出す。「そうなんですか。よろしくです、先生」由紀子の不安を拭いたいのか、努めて明るい雰囲気を佳枝が作ってくれる。


「あ、私もちょっとうさぎ小屋に入ってみてもいい? ユキちゃん」

「うん」


 許可をもらった佳枝が小屋の中へ入った。見覚えのない来訪者がやってきても、うさぎはこれといった反応を見せない。じっと座り込んで、ときおり顔を横に動かすだけだ。


「もふもふだぁ」


 楽しそうに毛をいじる佳枝を、由紀子が「優しくね」と注意する。「じゃあ、一緒にもふもふしよ」と佳枝が誘うと、由紀子は遠慮がちに、でも嬉しそうに頷いた。佳枝の明るさにつられて由紀子の表情から曇りがなくなっている。少しは不安が紛れたようでよかった。

 二人の邪魔をしないよう、英樹は静かにその場をあとにした。

 いま英樹が考えるべきことは、うさぎをどこの病院にいつ連れていくべきか、だ。またパソコンで調べてみるしかない。やるべきことは多い。けど。

 由紀子の憂いに満ちた表情を思い浮かべる。そうすると、どんなことも成し遂げられるような気がした。


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