第3話 教師という仕事
職員室に戻ると、佐々木が不服そうな顔をしていた。
「こんなに長い間どこに行ってたんですか?」
「すみません。ちょっと生徒がいて……」
自分の席に座る。隣が佐々木の席だ。どちらのテーブルにも、休憩を許さないかのように書類や書籍が積まれている。
実際の教師の仕事は、子供のころに想像しているものと大きな乖離がある。教壇に立って教鞭をとることが仕事の大部分と思われがちだが、教室ではない場所で向き合う仕事のほうが圧倒的に多い。書類の整理や事務作業、必要性を感じられない研修、クラブ活動の顧問、生徒指導。挙げればきりがない仕事を処理しきれずに家に持ち帰るのは、稀なことではない。
英樹の言葉を受け流して、佐々木は何枚かの書類を渡してきた。「これで大丈夫ですか?」さらりと目を通す。とくに問題はなさそうだ。
「いいんじゃないですか」
「よし、ありがとうございます」
ガッツポーズを繰り出してから、佐々木がパソコンに向き直る。
英樹も自分の作業を開始した。由紀子の掃除を手伝っていた分、想定よりもタスクが消化できていない。
途中、先輩である小野先生が佐々木のもとへやってきた。
「佐々木先生、これ、やっておいてもらえますか?」
一枚のプリントが佐々木に差し出される。誰でもできる仕事はたいてい職員室をまわりまわって年下の教師に流れ着く。
「来週までにやっておけばいいから」
「……わかりました」
語気からは引き受けたくないという本心がうかがえたが、立場上、断ることは難しい。佐々木は小野にばれないように、短く小さな息を吐く。
用が済んで自分の席に戻ろうとする小野を、英樹は立ち上がって呼び止めた。
「小野先生」
「……なんですか?」
忙しいというアピールをするように、小野は一瞬眉をひそめた。
「飼育委員についてなんですが、どうやらうさぎ小屋の掃除を内野ひとりがやっているようなんです」
飼育委員、という言葉に、小野がまた眉をひそめた。自分の管轄に突っ込んでくるな、と言外に訴えかけている。
「他の生徒も恐らく掃除を任されているはずなので、きちんと掃除するよう、注意していただけませんか」
だからといって退くわけにはいかない。それが教師としても人間としても正しいことであるはずだから。
「……そうなんですか、内野がひとりで……それは困りましたね。私のほうから注意しておきます」
どこか他人事のように語った小野は、これで話はおしまいだと言わんばかりに、この場から立ち去ろうとする。
「すみません。あと、もうひとつ」
「……」
小野が立ち止まる。まだなにか? と体で語りかけてくる。
「うさぎの耳の後ろにしこりがあるみたいで。病気かもしれないので、病院に連れて行ってもらえないでしょうか」
「わかりました」小野がとん、と足で地面をたたく。「時間があるときにやっておきます」
「……ありがとうございます」
英樹は頭を下げる。不機嫌そうだったが、了承してくれた。さすがに、教師として仕事を放棄するわけにはいかないのだろう。もしかしたら、後輩女性の佐々木がいたことも理由のひとつかもしれない。
安心して英樹が椅子に腰を下ろすと、隠していた鎌を振り下ろすように、小野が呟いた。
「ちなみに、どうして寺田先生がそのことを?」
ぎろり。黒い瞳がこちらを見ている。
「……さっき内野が掃除しているところを見て、少し話したんです」
「そうなんですか。もしかして、掃除手伝ってました?」
「……はい。さすがにひとりでやらせるわけにはいかないと思ったので」
「そうだったんですか」
小野が口角を吊り上げた。口元に歪んだしわが刻まれる。不快な表情。
「ありがとうございます、ほんとに。私は忙しくて、どうもそこまで手が回らなくて」
「そうなんですか」
「えぇ。あ、そうだ。さっき言ってた、うさぎを病院に連れていく件、寺田先生にお願いしちゃおうかな。余裕があるみたいですし」
余裕があるみたいですし、の部分だけ、口の中が潤ったように、さらりと口にした。わかりやすい嫌味だ。
「わかりました。私のほうでやっておきます」
すまし顔で応える。嫌味に反応してはいけない。腹を立てれば、相手に油を注ぐことになる。
「お願いしますね。では」
忙しいと主張するような足取りで、小野は自分の席へと戻っていった。
前の職場にも似たような人間はいた。新人への嫌味を絶えず口から漏らす上司。教育という外国では誰からも尊敬されるような職場で、尊敬に値しない人間が存在する。そのことがなんだか面白い。
「大丈夫なんですか?」
心配そうな声は、佐々木のものだった。
「寺田先生、連日すっごい量の仕事をしているように見えるんですけど……」
「別に、これくらい大丈夫です。生徒のためですから」
「それはそうですけど……」
佐々木が声のボリュームを落とす。
「小野先生のことは気にしないのが一番です。私も、あの先生苦手ですし、その……寺田先生は本当に仕事熱心で素晴らしい先生ですよ。嫌味じゃなくて」
「ありがとうございます」
「いえ」
佐々木がパソコン作業に戻る。後輩に励まされるほど英樹の心は軟弱ではないが、まぁいい。
それからはひたすら仕事に集中した。ひとつひとつ書類を片付けていき、残ったものは自宅へ持ち帰った。何時間ものデスクワークに身体はみしみしと疲労をため込んでいるが、精神的に疲れはない。むしろ教育に対する熱意は上がっていた。
長い夏休みが終わり、二学期が始まったのだから当然だ。ようやくまた生徒たちと会うことができた。そのことが嬉しい。ただ、それだけだった。
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