第2話 新学期

 九月一日、月曜日。二学期が始まった。といっても、この日は始業式のみで、生徒たちは久しぶりに会えた友人たちと笑顔をときめかせ、正午には下校していた。授業は翌日から行われる。

 英樹は昼食をとり終えたあと、旧校舎へと足を向けた。今日、教室で生徒が着席した際に椅子が壊れてしまい、その代わりの椅子を取りに行く必要があった。長年使っていたものだから、がたが来たのだろう。幸い、生徒にケガはなかった。

 夏の香りを残した風が、校舎の間を吹き抜けていく。多分に含まれた湿気が、肌にまとわりつく。


「ん?」


 校舎裏のうさぎ小屋のそばに、誰かのカバンが置いてある。今日は部活動がないから、生徒はみな帰ったはずだが、誰だろうか。

 気になって近づくと、開いていた物置からひょこりと人が出てきた。小さな体に、白いシャツと制服のスカート。


「内野……」


 内野由紀子。英樹が担当している一年二組の女子生徒。控えめな性格で、クラスで目立つようなタイプではない。問題行動を起こさないから、英樹にとっては手のかからない生徒だ。


「先生……こっ、こんにちは」


 誰かが来るとは思っていなかったのだろう、由紀子は思い出したように挨拶してきた。

 黒い髪が肩からこぼれる。


「何やってるんだ? こんなところで」

「久しぶりに登校したので、うさぎ小屋を掃除しようかと」

 

 由紀子が持っていたケージを近くに置いた。犬一匹が入りそうなサイズのケージだ。それを尻目に、由紀子は小屋の中へ入っていく。突然の来訪者に驚いたのか、一羽しかいないうさぎが小屋の中を走り回る。


「大丈夫だよ、私だよ」


 やわらかい声を発しながら、由紀子が近づいていく。ばたばたしていたうさぎが、次第に落ち着き、ぺこんと座り込んできょろきょろと周囲を見回すようになった。


「よしよし、ちょっとこっちに移動するね」


 由紀子がしゃがんで、手招きする。制服が汚れることは気にせず、近づいたうさぎをしっかりと抱き上げた。腕が白いお尻を包み込む。その状態のまま小屋を出て、先ほど置いたケージに入れる。

 一連の作業を見届けてから、英樹は口を開いた。


「うさぎ小屋って意外とでかいんだな」


 子供部屋くらいの広さがあり、そこを木板と金網で囲まれている。上には、小屋の床面積よりも大きく造られた屋根がのっかっている。うさぎにとっては運動しやすい広さなのかもしれないが、一羽だけだと寂しく思えた。


「もともとはもっとたくさんいたらしいんですけど、いなくなっちゃって」

「そうなのか」


 由紀子の表情に陰りはない。特に悲しいとは感じていないみたいだ。もしかしたら、由紀子が入学する前の話だからかもしれない。思えば英樹が初めてこの学校にやってきたときも、うさぎ小屋には一羽しかいなかった。


「なんで内野が掃除するんだ?」

「飼育委員なので……」 


 小屋に寄りかかっていたほうきを由紀子は手にする。

 小屋の中はとてもひとりで掃除できるようには思えない。夏休みに誰も手入れをしなかったのだろう、餌の葉が散乱している上に、ところどころ糞尿がこびりついている。動物園のにおいが充満していた。


「それは知ってるよ。他の飼育委員はどうしたんだ?」

「……う、うさぎの世話は私に任されているので」


 由紀子は明るい声で答えたが、質問に対する直接的な答えではない。恐らくほかの飼育委員は由紀子に仕事を放り投げたのだろう。教師が監視していないと生徒はサボりがちだ。あとで飼育委員の担当の先生に伝えておこう。

 しかし、それだけで教師の責務を果たしたことにするのは気が引けた。そもそもうさぎ小屋が汚れているのは、夏休みの間に教員が誰一人として清掃しなかったからだ。だとしたら責任は英樹にもある。

 そう、責任がある。だから。


「……俺も手伝うか」


 英樹がそう提案すると、由紀子がぶるぶると首を横に振った。


「い、いえっ……私の仕事ですし」 


 真面目な性格だからか、素直に聞き入れてくれない。


「でもなぁ、ひとりでやったらいつ帰れるかわからないぞ。昼は食べたのか?」

「お、お弁当を食べました」

「……」


 てっきり食べていないないとばかりに思っていた。


「やっぱりひとりにやらせるべきことじゃない。俺も手伝う。それとも、俺は役立たずってことか」


 ズルい言い方であることは英樹も自覚している。


「そ、そういうことでは……」

「なら、手伝うってことで決まりだな」


 由紀子がたくらみ通りの反応をしてくれたところで、英樹はとどめをさした。さすがにもう反対することはできず、由紀子は「ありがとうございます」と丁寧に一礼した。由紀子の性格を考えるに、あぁ言えば反対してこないのは簡単に予想できた。

 ひととおり由紀子の指示を仰いでから、掃除を始める。

 由紀子が散らかっていた草をほうきで集め、ゴミ袋にまとめていく。一方で英樹は、汚れのついた遊具やすのこを水飲み場の水道で洗う。蛇口の吐き出す水は夏の暑さをため込んでいるせいでぬるい。英樹が物置にあった洗剤で洗おうとすると、「うさぎの体に悪いので」と由紀子に注意されてしまった。他にも、由紀子は様々な知識を持っていた。うさぎの飼い方が書かれた本を購入して勉強しているのだという。


 小屋をある程度ほうきで掃除すると、由紀子も水飲み場にやってきた。たわしで木板の汚れをこすり取っていく。

 熱心に手を動かす由紀子の横顔を、汗が一粒縦断する。幼さの滲んだ顔は、輪郭がふっくらと丸い。滑らかな肌がゆるやかな山脈を作るように流れていて、その山脈の頂上のひとつである目には、混じりけのない黒い瞳が埋め込まれている。もうひとつの頂である唇は、化粧なんかしていなくても艶やかだ。

 身体の奥で風船が膨らむような感覚がする。と同時に、英樹は思い出す。


「なぁ、内野」


 英樹は蛇口をひねった。


「夏休みはどうだった?」


 せき止められていた水が流れ出す。


「……楽しかったです」


 汚れをさらって土色になった水が、排水溝に飲み込まれる。

 木板は脱皮したように明るい色を取り戻す。付着物が消えて、木目が浮き出ている。


「なら、よかった」


 でも。

 中央にこびりついた汚れがうまく洗い落とせない。


「内野は……夏祭りには行ったか?」

「……私は行ってないです」


 答えるまでにやや間があった、と感じるのは、気のせいだろうか。


「お父さんとお母さんが仕事で、ひとりで行くのは危ないって」


 細い眉が残念そうに下がるのを、英樹は横目でとらえる。


「そっか……」


 英樹は木板を地面に置く。体重をかけてたわしを動かすと、しつこかった茶色い汚れはある程度落とすことができた。完全ではないが、これくらいならうさぎに悪影響は与えないはずだ。由紀子に確認すると、「それで大丈夫です」とオーケーを出された。


「先生は花火大会、行ったんですか?」


 今度は由紀子が質問をする番だった。遊具に水をかけながら、英樹は答える。


「行ったというか、見回りのスタッフとして参加したんだ。毎年ここの教師は見回りをすることになっててな」

「そうなんですか……お、お疲れ様です」


 お疲れ様です、という言葉を返すのが本当に正しいのかわからない。そんな言い方だった。ありがとな、と英樹は返す。

 それ以降、二人の間では事務的なやりとりだけが行き来していた。生徒が夏休みを有意義に過ごせたか、教師としてもっと聞き出したかったが、深追いする気にはなれなかった。

 うさぎ小屋の掃除は、かれこれ二時間ほどで終わることができた。遊具や木板をすべて小屋に戻し、したたる汗をぬぐう。動物園とまでは行かなくても、それなりにきれいにすることができたのではないだろうか。

 由紀子が餌入れに餌を、水飲み場に水を加える。


「疲れたな」


 英樹は蛇口を上に向けて乾いたのどに水を通した。ぬるいけれど、水分を排出したあとだとおいしく感じられる。


「本当に、手伝っていただきありがとうございます」


 隣でぺこりと由紀子が頭を下げる。肩まで伸びた髪が腰の部分まで達していた。


「いいって、別に」


 それでも由紀子は頭を下げた。律義というか、頑なだった。

 うさぎを小屋へ戻すと、見違えるほどきれいになった環境に喜んでいるのだろう、ぴょんぴょんと元気よく駆け回って体を動かしていた。由紀子にはよく懐いているようで、ときおり由紀子のもとへやってきては一緒にたわむれるように頭をすり寄せていた。由紀子も嬉しそうに微笑んでいる。


「名前は何て言うんだ?」

「うーちゃんです。うさぎのうーちゃん」


 由紀子はうさぎを抱きかかえ、やさしくなでる。


「……先生も、触りますか?」

「じゃあ、少し」


 英樹は白い背中に手をのせた。ふわりとした毛並みは、冬に身体をあたためてくれる毛布のように心地が良い。当のうさぎは英樹に不信感を抱いているのか、逃げるように由紀子の胸の中に頭を押し込んでいる。


「内野にはだいぶなついてるな」

「そ、そうですか?」

「あぁ、俺に触られても、あんまり嬉しくなさそうだし」

「うーちゃん、人見知りなので……。ほら、うーちゃん、寺田先生にありがとうございますって」


 由紀子がうさぎを英樹の方へ向かせようとするが、当のうさぎは振り向いてくれない。


「あれ?」


 短いつぶやきが由紀子の小さな口から漏れた。うさぎを地面に下ろして、耳の部分を観察している。


「どうしたんだ?」

「ここ、なにか変な感じがするなと思って」


 由紀子が右耳の後ろ部分を触る。さするように指を動かして何かを確認すると、今度は左耳の同じ部分に指を触れた。


「しこり、みたいなのがあります」

「しこり?」


 注意深く目を澄ますと、確かに少し右耳の後ろが膨らんでいるような気がする。


「もしかして病気か?」

「わかりません……そうだ」


 近くに置いてあったカバンから、由紀子が一冊の本を取りだす。タイトルは『うさぎの飼い方』。ぱらぱらとページをめくり、並べられた文字に軽く目を通していく。由紀子が難しい顔をする。やがて、めくるページはなくなった。


「なにか書いてあったか?」

「いえ、病気についてはなにも……」


 ゆっくりと本が閉じる。


「ど、どうすればいいんでしょうか。もし本当に病気だったら……」


 由紀子の表情に影が落ちていく。ちろちろと水を飲むうさぎを、じっと見つめている。


「大丈夫」


 英樹は軽い調子でそう言った。


「俺が飼育委員の先生にどこかの病院に連れて行ってもらえないか相談しておくから」


 飼育委員を担当しているのは小野先生だったはずだ。四十代の男性。英樹の先輩。あまり話したことはない。


「あ、ありがとうございますっ」

「うさぎを死なせるわけにはいかないだろ。当然のことだ」


 生徒に責任感や動物保護の精神を身に付けさせるために、学校はうさぎを飼育している。当の学校が病気かもしれないうさぎを放置してしまったら、反面教師と言わざるを得ない。

 左腕の時計に視線を移す。もうすぐ午後の四時。


「じゃ、俺はもう行くから」


 二時間ほど、予定していなかった作業に時間を費やした。はやく戻って残る仕事を片付けなければいけない。仕事も問題も山積みだ。

 つま先を旧校舎に向ける。離れる前に一度、振り返ってみた。

 由紀子は、ゆっくりと、ていねいに、うさぎの体を撫でていた。

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