第一章 ふたりの秘密

第1話 花火大会の夜

 泣き声が聞こえた。すすり泣くようなとぎれとぎれの声。見ると、トイレの裏の暗所で幼い女の子が泣いていた。行きかう人々はみな屋台に夢中で、ひとりぼっちの少女の存在に誰も気づいていない。足音や話し声が混然一体となった喧騒から、英樹の鼓膜だけが小さな嗚咽を拾い上げたようだった。

 湖へと向かう人波に逆らって少女のもとへ行くと、少女は涙の浮かぶ目で英樹のことを見上げた。


「だ、だれっ……?」


 自分よりも巨大な存在に怯えているのだろう。英樹の身長は二メートル近くあるから、なおさらだ。

 しゃがみこんで、英樹の腰くらいの背丈しかない少女と目線の高さを合わせる。

「大丈夫、怪しい人じゃないから」英樹は微笑んで見せる。


「そう、なの?」


 英樹を捉える瞳が不安に揺れる。


「うん、ほら」


 英樹は自らの左腕を突き出し、見回り中と書かれた黄色い腕章を見せる。


「おじさん花火大会のスタッフで、ちょうどいま見回りしてるんだ」

「そう、なんだ……」


 少女の強張った表情が緩む。


「ほら、これ」


 ハンカチを渡すと、少女はそれを受け取って涙を拭いた。とりあえず安心させることには成功したようだ。


「お名前は?」

「……あみ」

「あみちゃん……ひとりみたいだけど、お父さんお母さんと一緒に来たのかな?」

「うん」

「じゃあ、お父さんとお母さんが今どこにいるかわかる?」

「わかんない」

「そっか」


 案の定、迷子らしい。

 少し遠いが、花火大会の本部のテントまで連れていこう。そこで会場全体にアナウンスしてもらえば、聞きつけた保護者が駆けつけてくれるはずだ。

 そう説明すると、少女は「わかった」と素直に頷いてくれた。英樹は少女の手を取る。すべすべとした手は、英樹が本気で握ったらつぶれてしまいそうなくらいか弱い。離れないようにしっかりと手を繋いで歩き出した直後、


「あの」 


 警戒の色を含む声が、背後から飛んで来た。


「私の娘に何しているんですか?」


 振り向くと、そこには眉間にしわを寄せた女性が立っていた。三十代だろうか。女性にしては背が高い。一緒に振り向いた少女が、「お母さん」と呟いて、英樹のもとを離れる。先ほどまで英樹と繋いでいた手が、今度は母親のてのひらとくっついた。「大丈夫?」と母親が尋ねると、少女は「うん」と元気よく答えた。


「ご家族の方ですか?」


 一応確認をとると、母親が怪訝な表情で「はい」と首肯した。


「どうやら迷子だったようなので、ちょうど本部に連れて行ってアナウンスしようかと思っていたところです」

「あぁ……スタッフの方ですか」


 英樹の左腕を見た母親が、ほっと安堵の息を吐く。


「すみません、娘がいなくなって慌ててしまって。てっきり娘を連れ去ろうとしてるのかと……。本当にすみません」

「いえいえ」


 申し訳なさそうに頭を下げるのを見て、英樹はよそ行きの態度を作る。


「最近は小さい子が事件に遭ったり、いろいろと物騒ですから、心配なさるのも無理ないと思います。お子様が無事にご家族の方と会えて何よりです。私はこれで」

「ありがとうございました」


 母親に一礼してから、英樹はもとの道へと戻った。花火の打ち上げ時刻が近づくにつれて、波を作る人の数も増えている。子連れの家族や、友達と遊びに来た学生、この町に長く住んでいそうな年配の方もいる。

 もう日は落ちたというのに、気温は下がる気配を見せない。年に一度のイベントに昂る人間たち。その熱を吸収した空気そのものがまるで膨張しているようだった。首筋を流れる汗を英樹がハンカチで拭いていると、


「見回りお疲れ様です」


 誰かにそう労われた。


「……お疲れ様です、佐々木先生」


 そのまま英樹の隣にやってきたのは、佐々木明美。カジュアルで涼し気な服、左腕には黄色い腕輪。英樹の同僚で、一緒にこの辺りの見回りを担当している。


「さっき、小学生くらいの子の親と話してましたけど、なにかあったんですか?」


 背が低いから、佐々木が上目遣いで尋ねてくる。英樹に話しかける人間のほとんどが似た仕草をするが、佐々木の場合は英樹だから上目遣いになるのではなく、誰に対してもそういう仕草を見せる。彼女はそうすれば自分をよく見せられることを知っている、と英樹は思っている。


「子どもが迷子だったので本部に連れていこうとしたら、ちょうど母親がいらっしゃって、それでちょっと話してただけです」

「なるほど、てっきり寺田先生が子どもを泣かせてしまったのかと」


 佐々木は後輩だというのに、ときたまためらうことなく軽口をたたいてくる。


「そんなわけないじゃないですか」


 英樹は頬を少し緩めた。佐々木の近い距離感に合わせておく。

 佐々木は去年、定年退職した教師の穴埋めのため、英樹の勤める中学校へとやってきた。大学を卒業し教員採用試験に合格したばかりの佐々木の指導役として、教師歴四年の英樹が選ばれた。そういうわけもあって、他の教師と比べ佐々木とは交流が多い。英樹は一般企業就職を経てから教師に転送しているので、年は教師歴以上に離れているけれど、それを感じさせないフラットな空気が指導するにつれて出来上がっていた。

 英樹が見回りを続けようと歩き出すと、佐々木もついてきた。一緒に見回ろうということだろうか。人が多い分、周囲とぶつからないよう英樹と佐々木の距離は近くなる。 


「問題起こしてる子とか、いました?」

「いいえ、そちらは?」

「はしゃいでる子はいましたけど、みんな羽目を外さずに楽しんでます」

「そうですか……っ?」


 英樹の腰に何かが当たった。よろけるが、転びはしない。


「ご、ごめんなさいっ」


 どうやら、小さな子どもがぶつかったらしい。その後ろから、友達だろうか、同じような背丈の子が集まってきた。怒られるのではないか。揃ってそんな顔をしている。


「こら、走っちゃダメでしょ。人が多いところで走ったら危ないんだから」


 佐々木が怒り顔を作って注意する。「ごめんなさい」彼らはしょぼんと体を縮めた。


「怪我はないか?」


 英樹はできるだけ優しい声音で尋ねる。


「ない……です」


 まだ怯えている。英樹は自分の手をゆっくりと、ぶつかった子どもの頭にのせた。丁寧に左右に動かす。さらさらとした髪は、絹のように滑らかだ。


「なら、よかった」


 微笑んで見せる。でも、子どもたちの緊張はまだ解けない。


「花火、楽しみ?」


 子どもがこくり、と小さく頷く。


「俺も、楽しみ。実は楽しみすぎて、走りたいくらい。でもな、走って怪我したら花火楽しめないから、走っちゃだめだ。できるか?」

「……うん。できる」

「なら、花火大会楽しんでこい」

「あ、ありがとうございます」


 英樹が手を離すと、彼は友達と楽しそうに射的の屋台へと歩いて行った。


「なんか、寺田先生って子どもの扱いに慣れてますよね」


 英樹が再び歩きだすと、ついてきた佐々木が口を開いた。心のどこかに少し靄がかかる。


「どうしたんですか、急に」

「いえ、私はすぐにだめでしょ、とか注意しちゃいましたけど、寺田先生みたいに言った方が、子どもたちも言うことを聞いてくれるのかな、と。私も一人前の教師になるべく、学べるところは学ぼうと思って」

「重要ですね、それは」

「最初会ったときはびっくりしたんですよ。こんな背の高い人が教師やってたら、生徒たちが怖がっちゃうんじゃないかって」


 実際、昔はよく怖がられていた。佐々木の予想は間違っていない。


「でも、いざ生徒と接しているところを見ると、すごく懐かれてて……私もそんな先生になりたいです」


 とくになんの感慨もなかったので、英樹は黙って歩き続ける。間を埋めるように、佐々木はいろいろと話してくる。


「……毎年この日になると、子どものころのことを思い出します」


 佐々木は、小中高と、この町で育った。初めて会った日にそう聞かされた。そのせいもあって、英樹と比べて佐々木はすぐに学校に溶け込んだ。


「花火だーってはしゃいでた私に、お母さんがりんご飴とか買ってくれて、余計はしゃいじゃって。さっきの子みたいに」


 佐々木が懐かしそうに微笑む。英樹は適当に相槌を打ちながら、周囲を見渡す。中学生以下か、高校生以上か。そうやって沢山いる人間をひとりひとりグループ分けしていく。迷子になっていそうな子も、羽目を外しそうな子も、今のところは見当たらない。


「そういうときによく注意してくれる先生がいて、小学校のころは誰かわかんなかったんですけど、中学に進学したらそこの先生で、仲良くなっちゃって」

「……どういう方だったんですか?」


 話したいようなので、話しやすいよう油を注いでやる。


「すっごく優しい先生でした。本当にいつも生徒のためを思っているというか……寺田先生と同じような感じで……」

「……」


 佐々木は少し間を空けてから、やや声のボリュームを落として言った。


「実は私、その先生にあこがれて教師になったんです」

 目の前を、りんご飴を持った小さな子が通り過ぎる。ひとり、かと思ったが、「まーくん、勝手にどこか行かないで」と、母親が駆けつけた。

「って、聞いてます?」


 横では佐々木が口を三角形にしていた。


「聞いてます」

「いま、すれ違った子に意識逸れてませんでした?」

「……ひとりかな、と思ってしまって」

「さすがは寺田先生って感じですね。仕事熱心で」

「すみません」

「まぁいいです……そういうところが好きですし」


 最後のほうは喧騒に紛れて、上手く聞き取れなかった。 


「その……」


 けど、佐々木の表情を見たら、なんとなく察することができた。

 そろそろ、別れたほうがいいだろう。


「もしよかったら」

「ここらへんで、私は引き返しますね」


 佐々木の言葉に覆いかぶさる形で、英樹は言った。間髪入れずに言葉を繋ぐ。


「あっちの方の屋台でおいしそうな焼きそばを見つけて。実はずっと食べたかったんですよ。そろそろ休憩時間ですし、買いに行きたいなと」

「……でも、今から湖に行かないと、花火近くで見れませんよ」

「花より団子なタイプなので。では」

「あ、ちょっと……」


 呼び止めようとする佐々木を置いて、英樹は引き返す。

 花火が始まるまであと三十分ほど。屋台で買い物をしながら会場の湖へ向かう人たちで道はあふれている。彼らは、今日を良い一日にしたい、そんな気持ちが含まれた音を全身でかき鳴らしている。下駄の音も、話し声も、笑い声も、呼吸音でさえも、すでに花火に彩られているようだった。

 人の流れに逆らって進んでいく。途中、自分のクラスである一年二組の男子生徒に出くわした。友達と来ているようで二言三言話したら湖のほうへと早足で去っていった。元気がいい。

 

 しばらくまた歩いていると、道の末端にたどり着いた。少し歩き疲れたので休憩するべく、離れた場所にあるベンチに座った。屋台から遠ざかるだけで、気温が一、二度下がったように感じられる。

 山のほうから風が吹いてきた。山全体が唸り声をあげるように、木々の揺れる音がする。そこに屋台のほうからやってきた愉快な声が混ざる。湖のほうへと流れていく人波は、いまだ絶えない。


 ふと、山のほうから、物音がした。

 音の方に顔を向けると、小さな人影が山の中に入っていくのが見えた。暗いから顔まではわからない。

 たしかこの山は立ち入り禁止になっていたはずだ。英樹は教員会議で聞いた内容を思い出す。子どもが舗装の不十分な山道で怪我をしたのだ。生徒にはホームルームで、道の整理された山以外には入らないように伝えている。

 ベンチから離れて山の前に立つ。すると、山肌が夜空の三分の一を隠した。

 入口の左右の木から伸びている黄色いテープが、立ち入り禁止を主張している。無視して英樹は足を踏み入れる。身長が高いから、黄色いテープはくぐるよりもまたいだほうが楽だった。


 人影の大きさから考えて、おそらく相手は小学生か中学生。整理されていない山道を夜に歩くのは危険すぎる。怪我しないか心配だ。

 ポケットから携帯を取り出して、ライトを点ける。道の先を照らしても、それらしき人影はない。もう遠くまで移動したのだろうか。だとしたら、普段からこの道を通っているのかもしれない。それくらい移動がはやい。

 ライトで地面を照らして、林立する木の根に足をすくわれないよう、注意しながら進んで行く。


 数分経つと、少し開けた道に出てきた。先ほどの道よりも整理されていて、歩きやすい。奥にはまだまだ道が続いているが、誰も見当たらなかった。

 諦めよう。そう思って英樹は振り返る。すると遠くのほうで光が列をなしているのが目に映った。さきほどまで英樹が見回りしていた屋台の光だ。

 英樹はそれらに背を向けて、再び山道を進んだ。

 人影が山に入っていったときの様子が、頭の中で甦る。光のある方へ集まる人々とは真逆の方向へ、ひっそりと移動するその様は、まるで、この世界そのものから隠れているようだった。

 

 道に沿って歩き続けると、白い石段が現れた。それなりに長く、上がっていくと塗装のはがれた鳥居があった。古い神社。奥の本殿には蜘蛛の巣が張られていて、もう長い間使われていないことがわかる。

 本殿の裏に回ってみた。が、やはり誰もいなかった。仕方ないので引き返そうとしたとき、セミの鳴き声と羽音が耳に入った。

 たくさん鳴いているわけではない。鳴いているのは一匹だけだ。その一匹が、おそらく羽をばたばたと震わせている。とぎれとぎれの羽音。

 音の発生源を見つけようとすると、スイッチを無理やり切られたかのように、セミは鳴き止んでしまった。直後、ごそごそと、足音がした。木々の間を誰かが移動している。


「なにして」

 る。


 そう続けようとしたとき、背後から破裂音が響き渡った。

 花火だ。

 光が容赦なく降り注いで、その横顔を暴く。

 そこにいたのは少女だった。

 しかも、英樹はその少女を知っている。

 呼び止めるよりも早く、彼女は奥へと姿を消してしまう。追おうかと思ったが、暗くて見失ってしまった。次の花火が打ち上げられたが、もう誰もいなかった。

 どうして彼女がこんなところに。

 咲きつづける花火の音を聞きながら考える。英樹が知っている限りでは、こんなところに遊びで入る人物ではない。なにか用があって来たのだろうか。けど、こんな古びた神社に用があるとも思えない。


 考えた末、さきほど彼女がいた場所を調べてみることにした。そうすれば、なにか理由がわかるかもしれない。

 木々の間をすり抜ける。彼女がいた場所。地面に視線を落とす。

 英樹は唖然とした。思わず息が止まる。花火の破裂音が、一気に遠ざかる。眼前の光景に、すべての意識が奪われた。


 花火で照らされた地面。そこにあったのは死体だった。

 十匹ほどの蝉が、真っ二つになった状態で転がっていた。

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