第3話

 大学に通うだけではお金が足りない。

 奨学金も借りてはいるが、生活費や雑費をまかなうため、俺は飲食店でバイトをしている。

 その日も、店の厨房で皿洗いをしていると、フロアから「あれ?」と聞き覚えのある声。


「……カナ?」


 思わず、洗い物を中断して覗き込むと、そこに立っていたのは白石カナだった。

 カジュアルなシャツに細身のデニム、いつものクールな雰囲気はそのまま。

 ただ、今日は少し疲れた表情を浮かべているように見える。


「なんだ……ここ、ケンジが働いてる店だったんだ」


「おお、いらっしゃいっス。ってか、疲れてる? 顔色悪いよ?」


「うん、ちょっと英会話教室のバイトが長引いて……頭が回らなくてね」


 そう言ってカナは小さくため息をつく。

 彼女は英語が得意で、子どもたちに教えるバイトをしているらしい。

 でも子ども相手って地味に体力も気力も削られる仕事だろう。


「そっか……じゃ、俺にできることあったら言ってね! とりあえず席に案内するよ」


 俺は急いでお冷を用意し、ちょっとしたサービスとして無料のスープをこっそり付け加える。

 カナが「そんな気を遣わなくていいのに」と言いながらも、何だかホッとした表情を見せたのがわかる。


 しばらくして閉店間際。

 店の片づけをしていると、再びカナの姿が目に入る。

 どうやら店内が空いてきたからか、座ったまま少しだけまどろんでいるようだ。


「……寝ちゃいそうじゃん。大丈夫か?」


 声をかけた俺に、彼女ははっと目を開ける。

 そして、いつになく素直な口調でつぶやいた。


「ごめん……ちょっとだけ、バイトとか勉強とかで疲れがたまってて」


「そっか。……あ、もしよかったら、ちょっとだけ裏で休む? もう閉店時間だし、俺も上がる準備するからさ」


「え、でも……」


 戸惑うカナを引き連れ、俺はバックヤードにある従業員用の椅子を差し出す。

 彼女は申し訳なさそうに腰掛けて、細い指でこめかみを押さえている。

 そこに俺は英会話のテキストを差し出した。


「そういえば、俺、英語下手なんだけど発音の練習とか教えてもらえない? 代わりに、俺で良ければ相談乗るからさ。……何か悩んでる?」


 そう切り出すと、カナは意外そうに目を丸くする。

 あの冷静沈着な彼女が、わずかに目を潤ませている。


「悩み……ね。あんまり人には言わないけど……実は留学のこととか、いろいろ考えてて」


「留学か。いいじゃん。カナなら絶対やっていけるっスよ」


「……そんな簡単じゃない。お金だってかかるし、親の理解も得なきゃいけない。今のバイトも辞めるわけにいかないし」


 彼女は早口気味にまくし立てながら、段々と声を落とす。

 そんな様子を見て、俺は自然と彼女の肩に手を置いた。


「大丈夫だって。もし俺で手伝えることがあるなら、協力するよ」


 ふと気づいたら、二人の顔はかなり近い。

 バックヤードの狭い空間で、俺たちはほとんど密談に近い形で会話している。

 妙に意識してしまい、思わず頬が熱くなる。


「……ありがとう。ちょっとだけ、心が軽くなった……かも」


 あまりにしんみりした空気に、俺はあえて軽い調子で笑ってみせる。


「お礼に、今度英語の宿題手伝ってね。俺、本当にヤバいから」


 カナは苦笑混じりに「仕方ないな……」と頷く。

 その一言だけでも、俺の胸は妙に弾む。

 こういう不器用なやりとり、なんだか悪くない。


 外に出ると、いつの間にか店はすっかり閉店。

 静まり返った夜道を、カナは先に歩き始める。

 俺はその後ろ姿に見とれながら、いつの間にかカナと一緒にいると安心する自分に気づいていた。


 これって、恋なのかどうかはまだわからない。

 でも、彼女の強がりで不器用な部分が俺の心を惹きつけているのは間違いない。

 そして、彼女の悩みを解決できるなら――俺は何だってやりたいと思う。


 夜風がまた少し冷たくなったけど、俺の心は確かな熱を伴っていた。

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