第5話 異国打ち払い令の期限を迎えた5月10日

5月10日 「異国船打ち払い令」の期限を迎えた日

文久3年5月10日。1863年、太陽暦なら6月10日頃。


梅雨だ。連日雨降りで風もなく、汐≪しお≫待ちの船は港につながったまま。


これから、旅籠に二日間お泊りになった松田様というお客を亀山八幡宮かめやまはちまんぐうにお連れする。


この時間にお客をお連れして、ご隠居いんきょさんとハナのことを調べ、梅と話すのが日課になっている。


絶対につきとめたい。


ハナがあんなきれいな着物を着ていたわけと、海で亡くなっていた理由。


どう考えても、歩いていて海に落ちることは無い。


水遊びするわけないし、釣りをするはずもない。


あんな死に方考えられない。


それに嫉妬に狂ったトミかもしれないという噂が巡り巡って尾ひれを付けて、旅籠の奉公人が噂しているような気がして、以前のように皆と打ち解けて話せない。


このままじゃ、縁談に響くかもしれない!!

大店≪おおだな≫の若旦那様のことをふっと思い出した。


石段を上ったところで、振り返って海を見た。

「松田様、お宮の階段を上ると……ほら、海峡が見渡せますよ。あちらが小倉、こちらはバカン。潮の流れが速くて川の流れのようですね。ほら、大きな廻船かいせんが見えます。船たちは港で汐待をしている。どうぞ、お足元にお気をつけください」


「おトミさん。いい景色だねえ。晴れていたらもっとキレイなんだろう。さて、亀山様にお参りして行くよ。じゃあここで」


「松田様、お達者で。よい旅をなさってくださいまし」


松田様は笠をかぶり蓑を着ている。


笠を深くかぶり直して、お宮の方に駆けて行かれた。


雨が降るのにご出発。


きっと大事なご用があるのでしょう。



雨の勢いが増した。

煙る海峡は墨絵のよう。


何かしら?

境内の砲台に、ずいぶんたくさんのお侍が集まっている。


今日は何だか、いつもと違う。

何が違うって?


お侍たちが違う。

いつもは軽装なのに、今日は鎧兜よろいかぶとを身に着け、大小の刀を差している。

そして、迫力が違う。

ほら貝や太鼓も準備されていて、雨に濡れないようにみのがかけられている。


そんなことより、茶店で梅とご隠居さんと会って、ハナのことを探らなくちゃ。

おや、しゃくり声が聞こえる。泣いているのはだれ?


「トミ姉さまぁ」


やっぱり梅だ。


「どうしたっていうの? お梅ちゃん」


茶店に入って、梅の髪のほつれを撫でつけてやった。大きな目からは涙がこぼれる。そのくせ、手は止まることなく、たくさんの湯呑≪ゆのみ≫に茶を注いでいる。


「トミ姉様、梅はイヤになりました。お茶子など命がいくつあっても足りやしない」


「いったい、どうしたの?」


「あそこの、お侍様に茶を持ってこいと言われ、まずい茶を入れたらたたき斬ると言われ、だから、こうやって一生懸命においしくなあれと……」


「どの人に言われたの?」

「頼まれたのは、あの若い侍に。

たたき斬ると言われたのは、あの人。白く化粧をしたお公家くげ様にです」


「なんですって?! なんてひどい!!」


お公家様か……ひな人形のお内裏様だいりのような衣装。


直垂ひたたれ烏帽子えぼしをつけ、顔はほんとに白い、お化粧だ。


眉を描き、口紅もつけている。


ああ、あの人がバカン中でうわさの中山忠光公子様なかやまただみつこうしさまね。


京から来て、わがまま放題の横暴な男と言われている人。


見れば人形のようにきれいな男ではないの。


でも、このバカンで勝手なことはさせない!


梅をたたき斬るなんて、絶対にさせない!


もしや、ハナはあいつにたたき斬られた?


いやいや、刀傷はなかったはず。




高下駄をカラカラ鳴らして歩み寄った。


妹分の梅にひどいことを言うなんて、お侍でもお公家様でも許せない!


急に手をつかまれた。


ん? 誰?


文吉だ。後ろに伊藤のご隠居さんがいる。


「トミ、落ち着け! まあ、落ち着け、あちらに参ろう。今日は皆気が立っておるのじゃ」


文吉に手を引かれて、茶店の床几に腰かけさせられた。


ご隠居さんが両肩をつかんでゆさぶった。


「なんだ、トミ、目が吊り上がっておるぞ。怒った美人もまたよいものじゃが」


「もう、戯言ざれごとはよしてください。梅が、たたき斬ると言われたそうです」


「ああ、そうじゃったか。かわいそうにな、梅。あの侍たちは今、難しい相談をしておるのじゃ。幕府から異国の船を攻撃しても良いと言われてな。


それが五月十日、今日なのだ。


毛利の殿様が大将で、様子を見ようと言っておる。


生まれ育ったバカンを焼くわけにいかんからな


しかし京からいらしたお公家様は『やるぞ!』とおっしゃってな。


やるのやらんの大騒ぎ。


毛利の大将と忠光公率いる尊王攘夷を掲げる光明寺党の志士とがバチバチの火花を飛ばしておるのじゃ」


「まあ、そうなんですね」


「そこでだ、トミ。たっての願いじゃ。じいの願いを聞いてはくれぬか?」


伊藤のご隠居さんは、にこっと笑って目を細めた。


「美しい。実に美しいなトミは。なあ、梅。トミは美しいとは思わんか?」


梅はすっかり機嫌をなおしている。


ご隠居さん、当たり前でしょ。うちのトミ姉さまはバカン小町ですよぉ。


「バカンで一番美しくて、ほんのりと伽羅≪きゃら≫のいい匂いがして、優しくてまっすぐで、最高の最高の最高の姉様ですからぁ」


「うむ、その通り。それでだ。トミのその色香であのお方を落ち着かせてはもらえまいか。あのお方とは、中山忠光公子様だ。ここでは名を偽って、森様と呼ばれている。トミならできるぞ。『お茶をお持ちしました』そして、にこっと笑ってやってくれ。その花が咲いたような笑顔が、バカンを救うことになる」


なんと……トミの笑顔がバカンを救うのですって?!

そんなこと、できるのかしら

まあ、考えてみると……旅籠の男客が大声を出していても、トミが出て行って愛想よくお相手すると、たいてい大人しくなるものだわ。

やってみようかな……。


「承知しました! 愛嬌でバカンを救います。ほら、梅、行きましょう。ほら、お盆を貸してごらんなさい。あら、雨が上がったわ。今よ、今」


「まってぇ。トミ姉様」


人数分の湯呑をふたつの盆に分けて、背筋を伸ばして、こぼさぬように茶を運ぶ。



~編集さんの部屋で~


「ところで、今さらだけど、バカンって何なの?」


編集さんが赤ペンを耳にはさんで、わたしをちらっと見る。


「馬の関って書いてバカンって読むんですけど、中学生には読みづらいかなと思ってカタカナ表記にしました。


今の山口県の下関市のことでございます」


「光の明るい寺ってどう読むの?」


失礼しました。コウミョウジって読みます。光明寺党の浪士は中山忠光公子様を奉って異国船を攻撃します。それまでも、江戸や京でテロ行為を繰り返していて、今では怖いものなし。脱藩だっぱんしているので浪士ろうしなんですけど」


「ああ、こういう話、頭が痛くなりそうだ。だんだんイヤになってきた」


「ごめんなさい。つまり浪士は、今でいうと、会社に迷惑をかけないように退職するした人たち。法律違反の仕事をするには大事な会社に迷惑をかけられないって感じの人たちです。逮捕されてもマスコミに名前を公表されても、退職後なので会社には責任を問われないだろうということです」


「退職後の会社員か。つまり、どこからも給料がもらえていない侍なんだね」


そうなんです。だから、廻船問屋≪かいせんどんや≫の白石正一郎とか伊藤本陣の当主など、バカンのお金持ちが浪士を食べさせていたんです。白石などはみんなに食べられ飲まれて、いろいろあって、豪商だったのに借金だらけになり家をつぶされました。おや、編集さん、興味が湧いてきましたか?」


「いやあ、なんとかついていくよ。中学2年のヒロトくんは、ついてきてるかどうかわからないけどね」



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