第2話「バカン殺人事件~トミが見た文久三年」
文久三年、それは1863年、江戸時代の末期。つまり幕末。徳川家康はもちろん死んでいる。
そして、4月2日の出来事だ。しかし、4月2日といっても当時は太陰暦なので、今の太陽暦で言えば5月2日くらいのこと。
「おばあさま、どう? 似合うかしら」
トミは桃の花をあしらった振袖に袖を通して、くるりと回った。
「物騒な世の中だけど、娘の慶事は待ってくれないからね。ああ、よく似合う十七歳にぴったりだ。今度の結納にぴったりじゃ」
「おばあさま、ありがとうございます。こんなきれいなお着物見たことないわ」
「帰り道は本当に気を付けて。長府の侍が血走った目で走り回っているから」
「あら、おばあさま、長府の侍だけじゃないの。萩のお侍もたくさん走り回っているわ。天皇様が異人を討てとおっしゃったんだとか。バカンは異国の船がたくさん通るから、大砲を撃って、お船を海に沈めるらしいの。おばあさま、ご覧になった? 異国のお船。たくさん帆がついていて、それはそれは、美しいのよ」
「政治向きの話は好きじゃないんでね。それよりトミの縁談の話の方が楽しいわ。どんなお方なの?」
「優しいお方よ。賢くて口数少なくて、きりっとしたお方なの」
「大きなお店の跡取り息子さんだとか。トミより母親が惚れ込んでいるみたいね。トミには大きなお店の長男に嫁がせるというのが願いだったから。まあ、叶ってよかったわ」
おばあさまと笑い合って、お暇(いとま)することにした。
草履をはいて、お着物の入った渋茶色の風呂敷包みを受け取り、おばあさまにお別れのご挨拶をした。おばあさまは何かを思い出したようにはっとなさった。
「トミ、ちょっと待ってて。忘れてた」
奥の部屋に向かって走って行き、もうひとつ深い藍色の風呂敷包みを持ってきてくださった。
「これはね、おばあちゃんの嫁入り道具。トミに使ってほしいの。受け取って」
ずしりと重い。
「おばあさま、これは」
「鏡よ。トミの家にはもう無いんでしょ。大砲を作る材料にするとかで。金物は何でも持って行かれてしまうからね。だけど、嫁入りするトミには鏡を渡したくって、こっそり隠していたの。内緒よ」
おばあさまのお気持ちが嬉しくて嬉しくて、涙があふれそうになった。
海沿いの道を、実家の旅籠に向かって足早に歩いた。
バカンは東海道の終着点。
この道をずっと行くと、亀山八幡宮に行きつく。
近くには関所があって旅人は手形を見せるのだ。
トミは風呂敷包みを抱え直した。荷物は重いが、心は軽かった。両親の喜ぶ縁談がある。もうすぐ嬉しい出来事が次々とあるはず。結納、嫁入り行列、披露の宴。すっと深呼吸した。
海が見える。たくさんのお船。
帆を張った廻船が海峡を行く。大きな帆がいっぱいに風をはらんで、ぐぐっと揺れる。
廻船は大阪から瀬戸内を回って、バカンに泊まる。
春はバカンが生き生きと活気づく季節だ。
廻船から積み荷が蔵に運び込まれ、船員たちがぞろぞろと陸に上がっていく。
飯を食べ、風呂に入り、お店をいろいろ見て歩く。
お店はこの季節、品物の種類を増やし、きれいに並べている。
手の込んだ彫刻のすずりや美しい提灯。
とれたての魚や干物。
そして、酒。
港から上がったところにある稲荷町では三味線や太鼓の音が、絶えることなく鳴り響く。
バカンの稲荷町と言えば、有名な遊郭である。大人たちの話では、他国との遊郭とは違って、特別に格式が高いそうだ。
なんでも、稲荷町の女郎は客よりも上座に座り、他では許されていない足袋を履いているそうだ。
琴やら唄やらの芸に秀で、和歌をたしなむ教養もあり、しとやかで衣装も古式。
芝居も演じるので、トミもお客を連れて行くことがある。
「だって稲荷町の女郎は源平合戦で敗れた平家官女の血をひいているからな」
おじいさまから何度も聞いた話だ。
トミも芸者のお姉さんたちがお化粧をして、きれいな着物でお座敷に行く姿を見るのが好き。稲荷町の近くを通ると、お姉さんたちの唄や笑い声が、鈴のように響くのよ。
だけど、今年は少しだけ違う。
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