バカン殺人事件

角砂糖

第1話  佐藤サトが編集長につきつける。読んでください!

                        




読まれる小説を書きたい私、佐藤サトは書き終えたばかりの自信作「バカン殺人事件~トミが見た文久三年」をバッグから出した。


私にとってこれが最後の作品。新人賞をとれなかったら、作家になる夢はきっぱりあきらめる。


今日は、憧れの編集さんに読んでもらう日である。SNSで知り合ったこのお方は、なんと下読みのプロなのだ。


つまらない作品に対する嗅覚が素晴らしく、3行読むと良いか悪いか判断できるらしい。


この編集さんに最後まで読んでもらえたならば、もう新人賞はとれたも同然とSNSではすごい評判だった。


玄関でベルを鳴らすと、「あ、サトちゃんね。入って」と声が聞こえた。


ここは編集さんの部屋。ドリンクバーがあり、軽食もそろっている。座り心地の良いソファー、木目のテーブル。壁には和のテイストのグラフィック。


そして、ソファーに横になり、だらりと手足を投げて原稿を読む編集さん。

隣に同じ形の猫。


ああ、ここで物語が選別されていくのだ。


さあ、時間はたっぷりある。今日はこの作品をしっかり批評してもらい、読まれる作品に進化させるのである。どんな辛辣なお言葉も、ありがたく頂戴する覚悟はできている。


いざ、出陣! 


「編集さん、『バカン殺人事件』でございます。読んでくださいませ」

原稿を手渡した。





「まじかー」

編集さんの口から出たのは、これだった。


「サトちゃーん、ちょっとちょっとー」

赤ペンの先でコツコツと原稿をたたく。


「この文久三年っていつなの? 平安時代? 戦国時代? 」


「はっ! 編集さん、それは江戸時代でございます」


「へー、じゃあ聞くよ。徳川家康は生きてるの?」


「お隠れになっております」


「死んでるってことね。うん……あのね、ボクは歴史が大嫌いなの。その中でも特に日本史が一番嫌いなの」

編集さんは、もう読む必要なし! と原稿をテーブルに投げた。


(ああ、無念!! なんということ!)


「もちろん西洋貴族とか中華後宮とかだったらまだ読めるけど。文久三年は、エグいてー」


「はいっ!」

頭を深くたれ、編集さんの声を拝聴する。心の臓がバクバクする。


(覚悟を決めてたはずなのに、無念!)


「サトちゃんねえ、文久三年って聞いていったいどれだけの人が、ピンとくるかなあ」


編集さんがお代官様に見えてきた。これは、反論するだけ罪が増えるやつではあるまいか。


「申しわけございません」


「そもそも、このミッションわかってる?」


新人賞作品募集の内容を思い出した。確かそれは……。


「サッカー部を辞めた中学二年生の男子が、楽しんで読む小説でございます」


「そう、わかってるじゃないの。ちょっと付け加えるね。中学二年のヒロトくんは、小学生の頃からサッカー一筋に生きてきたの。高校には強豪校に推薦で入る予定だったの。だけど、監督にレギュラー外されてメンタルやられて、部活を辞めたの。三年になったら、高校入試を勉強で迎え撃つ覚悟だけど、勉強は大嫌い。わかってる?」


「はいっ!」


「最近はクラスメートとソシャゲやって、時間泥棒されているらしい。ヒロトママはそれを見て、塾に行かせようと思った。だけど、昨日ママ友に会ったら、こんなことを聞かされた。ヒロトくんが行きたいと言っている個人指導塾は、アルバイトの先生が甘くって、寝たい子には寝させてくれるんだって。何万円も出して昼寝夕寝だなんてバカバカしい。ママは考えた。塾に頼るのはやめよう。だいたい学力を買うなんて下品だわ。じゃあどうする?」 


「母君は四面楚歌(しめんそか)。かなりお困りですね」


「それ! 途方に暮れているヒロトママ。ある日、SNSを見た。そこでは、読書こそが学力を伸ばすと発信されていた。ヒロトママは本屋に走って行った。今時いないよ? 本屋に走っていく人って。ヒロトママはそこで中学生男子におすすめの本を探す。表紙のイラストに胸が大きい女の子がいるのは、やめておいた。ふと書棚を見ると『バカン殺人事件』がある。面白そうだと思う。そして表紙の絵は、お公家様と和服の娘。これだ、これしかない!『おつりはけっこうよ!』と勢いよく現金払いする。そして、この本をリビングのテーブルの上に置く。ドーナツと牛乳と一緒に。帰宅したヒロトくんの目によく触れるように。ヒロトくんが帰宅してドーナツに食いつく。そして、ヒロトくんがその本を読むかどうか、キッチンに隠れて、忍者のようにそっと見ている。SNSの情報では、『読んでみたら』なんて口が裂けても言ったらダメ。中学生男子は母親の言うことは絶対に聞かない。思春期なのだから」


「はっ!」


「ヒロトママが藁(わら)にもすがる思いで手に取ったのが、サトちゃんの本だ」

「おおっ! 名誉なことにございます」


「しかし……しかしだ。文久三年ときた。この四文字を読んだところで、ヒロトくんはただ一言『えぐっ』と言う。そして、本を閉じ、ドーナツを食べて「あ、こんな時間か」とソシャゲに向かう。だって文久三年がいつの話かわからないんだもの。どう? やばくね」


「ううむ」

(考えろ考えろ。お代官様を納得させる何かを……)


「すみません。お言葉ですが編集さん、文久三年の話を聞いていただけますか?」


「ん?……まあ、いいだろう。読むのは嫌だけど、聞くだけは聞こう」


「江戸幕府、約三百年なんですけど、その最後の数年を幕末と言うんです。文久三年は事件が多発し、日本史に詳しい人でも何が何だかわからなくなる時代なんです」


「さ・い・あ・く・じゃないかー」


「そのころ新選組とか坂本龍馬とか西郷隆盛とかが活躍したんですけど、知ってますか?」


「名前は聞いたことあるけど、知らないよ」


私は、天を見上げた。

(編集さんほどのお方が幕末を知らないなんて、世間一般の人たちもきっとそうだ。歴史物とか時代物とか、やっぱり書いても読まれないのかな)


編集さんはもう次の原稿を手に取って、はっはっはと笑っている。私の話なんか聞いちゃいない。

(悔しい!!この人を絶対に笑わせてやる!)


私は原稿を手に取って無言で部屋を後にした。編集さんは私がいたことさえ忘れているだろう。


家に帰った。涙をこらえて、原稿を見た。

今こそ臥薪嘗胆(がしんしょうたん)だ。悔しさを忘れないように薪(まき)の上で寝て、苦い肝(きも)を舐めて、この悔しさを忘れない。編集さんが喜ぶ小説が完成するまで、家から一歩も出ないで、書いて書いて書きまくるぞ!

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