第8話 藤木里桜
今より伊織が語るは一〇年前の話――
「よし、まず一作品できた!」
当時、小学生であった伊織は、完成した作品に声を弾ませる。
半袖シャツに半ズボンの活発な服装。
その上からは、ゴーグルに防塵マスク、防刃手袋、エプロンとカレーを作る服装ではない。
カレーバカと周囲から言われるようになるのは、もう少し未来の話――
「おばさん、ひとつできたよ!」
次いで使用していた彫刻刀やヤスリを作業台に置く。
使った工具は、元あった場所に戻すこと。
周囲に散らばった木片は、片づけること。
ケガに注意すること、したらすぐ呼ぶこと。
それが叔母との約束であった。
「おばさん!」
ゴーグルと防塵マスクを外しながら、後方で彫刻作業を行う女性に呼びかける。
穏和で思慮深い顔つきは真剣に染まり、太陽よりも月が似合う女性。
日頃は化粧毛はないが、パーティー出席にて着飾れば、別人と疑うほど。
茶褐色の髪を後方にまとめたツナギ姿の女性は、子供の呼びかけに気づかず、一心不乱にただ黙々と、ミノと金鎚を手に、大人ほどある太い木材を削っている。
右手で持ったミノを押し当て、左手の金鎚を打ち付けて削る。
木面には下書きすらない。
文字は間違えれば修正できるが、一度削った木材は修正ができない。
間違わないために案内図たる下書きを施すのだが、女性はどこをどう彫ればいいのか、把握しているかのように、ただの木材を一つの芸術品に昇華させていく。
「お~!」
小さな伊織は、叔母の見事な腕に目を見開き、しばしの間見入ってしまう。
金鎚でミノを打つ音も、どこか心地がよく、弦楽器を聞いているようだ。
このまま外に繰り出すのも手だが、外はどこかつまらない。
村に遊ぶ場所がない。公園がない。ショッピングモールどころか、コンビニがない。あるのは田畑と山ばかり。
山に入ってセミ採りでもして遊ぼうとすれば、知らないおばあさんから雷を落とされた。
お年寄りばかりで、両親のような大人どころか、子供すら一人もいない。
都心部と違って空気はきれいだが、村に漂う空気は近寄りがたい重さがある。
後、家々が防虫剤臭い。
洋服タンスの中にいるみたいでイヤだった。
(やっぱり来て正解だった)
すごい叔母の作品を直に見ることができた。
夏休みなのを理由に無理を行って、六時間も車を運転してくれた父親に感謝したい。
「おや、もうできたのかい?」
一息入れた時、
作業を見ているだけでは退屈だろうに、甥っ子からは退屈さが微塵も感じさせない。
むしろ、興奮気味に目を輝かせている。
「うん、おばさんに負けない俺渾身の作品だよ!」
「お~言ったな。さてはて、どんなのを作ったのかな?」
自信満々な甥っ子に、里桜は口元をほころばせる。
「ぷっはははははっ!」
甥っ子の力作を見るなり、里桜は腹を抱えて笑い出す。
ああ、まさに小学生の男の子らしい作品だ。
画用紙ほどある木の板を削りに削って、ヤスリで磨きに磨いて形成された作品は、二つの文字だった。
<く・そ>と。
台座もしっかり自作しており、このままトイレ前に飾れば大受け間違いなしだ。
「もうなんで笑うんだよ!」
「悪い悪い、これは笑わずにはいられないよ」
最近、仕事で少し張っていたから甥っ子の作品は、良い緩和材になる。
「兄さんたちも、小さい頃は、ンコとかなんやらで楽しんでいたからな」
「血?」
「血縁だね。極めつけなのが、家族で動物園に行った時だよ。
「うわ、動物園のゴリラ、ンコ投げてくるって話、本当だったんだ」
「本当だよ。あ、野生のゴリラは投げないけどね」
「え? そうなの? なんで?」
キョトンと首を傾げてきた。
「動物園には天敵のヒョウがいるだろうけど別の檻の中、けれど野生ではいつどこで襲ってくるか、わからない。檻の中はしっかり食事も出て安全だからね、暇なんだ」
「あ~ンコ投げるのは暇つぶしってこと?」
合点行くように何度も頷いている。
「そう、投げつけた人間の反応を見て楽しんでいるんだ。あ、きみはしちゃダメだよ。
「そんなことしない!」
甥っ子がはっきり告げる顔つきは、父親である健そっくりだと、叔母として里桜は感心する。
「え~そうかな~?」
あえて試すように聞くのは、親心ならぬ叔母心だ。
三人の兄は揃って、幼き頃は、いたずら好きであった。
だから父親は頭を抱え、追いかけ回しては三人をひっ掴まえては、尻を叩いていた記憶がある。
「俺、兄ちゃんになるんだもん! 生まれてくる家族に恥ずかしくないような兄ちゃんになるんだ!」
つい先日、兄の
性別はまだわからないが、甥っ子の様子から家族が増えるのを純粋に喜んでいる。
「ふ~ん、ならきみは、妹と弟、どっちが欲しい?」
「弟! サッカーとか釣りとかあれこれ一緒にしたい!」
いかにも男の子らしい返答である。
里桜は微笑みながら、甥っ子の頭を優しく撫でる。
「うふふ、もし妹だとしても、大丈夫だよ」
「何言ってんの、俺はお兄ちゃんだよ。妹、弟どっちでもお兄ちゃんなんだよ!」
本当に、本当に子供らしい返しだ。萎縮することなく堂々としている。
「それなら、きみは良いお兄ちゃんになれそうだね」
あの時、叔母が浮かべた笑みを伊織は覚えている。
月の光のように、柔らかな笑みを。
二度と見れぬことになるなど、幼き伊織は思いもしなかった。
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