第5話 呼び出しの理由

 伊織は、博多の町並みをエレベーターの窓辺から眺めていた。

 小さい頃は、俯瞰する街並みに興奮していたものだ。

「あ、こんにちは」

 エレベーターが止まる。

 ドアが開き、中に入ってきた社員たちに挨拶する。

 挨拶は大事だ。

 挨拶ができれば仕事はできる、といわしめるほど重要なファクターである。

 会社たる組織が上下左右、縦横斜め裏表前後の繋がりにて運営されるからこそ、挨拶は信頼たる繋がりを繋ぐ最初の糸口。

 顔どころか、礼儀の知らぬ輩と一緒に仕事をしたい物好きはいない。

「こんにちは」

 誰もが挨拶を欠かさない。

 傍から見れば、エプロンジャージの不審者だが、伊織は社長の孫として顔と名は知られている。

 月に一度、会社前でカレー弁当を販売しているのが原因である。

 否応にも社員たちに知られるは必然。

 怒鳴りつけた男は、単に知らなかったから。

 無知は罪を文字通り体現していた。

「お疲れ様です~」

 社長室前にある秘書課の前を通り過ぎる伊織。

 ここでも挨拶を忘れない。

 秘書の面々から、困惑した目を向けられるが、原因は、当然のこと着たままのエプロンだった。

「爺さん、入るぞ?」

 ノックもまたしっかり忘れない。

「うむ、入ってくれ」

 食事はもう終えているようだ。

 中に入れば、幅広い社長用デスクの前で食後の茶をすする社長と、空となった弁当の容器、カレーの残香が伊織を出迎える。

 社長背後の窓辺から、博多のビル群が一望できる。

 小さい頃は、どのビルよりも高いため、心躍らせたものだ。

 今日は天気が良いため、ドームやタワーがしっかりと見える。

「まあ座ってくれ」

 促されるまま、伊織は備え付けのソファーに座る。

 歓待用のソファーは、身体から体重を忘れ去るほど、ふかふかだ。

「あ~そうそう、お前さんを怒鳴りつけた男じゃが、もうおらんから安心せい」

「消したのかよ?」

「消すなら、経済的に潰すほうが早いわ」

 苦笑する祖父だが、聞いている孫は笑えなかった。

 やりかねないからだ。

 怒鳴りつけ男、聞けば人事交流の一環で、取引先の企業からやってきた男のようだ。

「取引先の立場を利用して、あれこれ勝手にやっとるらしくてのう。探り入れっとたら、今回の騒動ときた。ただ少し早いお帰りにしただけよ」

 伊織の顔を知らないのに合点が行く。

 やはり無知は罪だ。

「ふぃ~相変わらずお前の作るカレーは美味いのう。これだけ汗が出るのに、辛さは感じないときた」

「感想わざわざ伝えるために呼んだの?」

「いんや、仕事の依頼じゃよ」

「だから、それは大学の窓口通してって言ってるよね?」

「出資者権限」

 悪びれもなく堂々と言い放つ祖父に、伊織は孫として、お手上げだ。

 実際、伊織が通う北博多大学は、<藤木グループ>が昭和の高度成長期に創設し、出資を行っている私立の大学である。

 次世代の人材教育を唄い、高等部から大学院まである。

 学部も経済学部から、法学部、文学部、医学部、教育学部、外国語学部、工学部と下手な大学よりも、敷地共に大きく、マンモス校として知られていた。

 何より卒業後は、藤木グループ系列の企業に就職できる強みがあるため、県内外問わず進学希望者は多い。

「何度も言うけどさ、俺のサークル<クリーン>は、掃除サークルであって、カレー販売や企業の委託なんでも屋じゃないんだよ?」

 伊織は、困った顔で声を曇らせる。

 今日はたままた伊織ひとりであったが、三〇名のサークルメンバーが属している。

 公園を筆頭に、海岸や池、歩道の清掃活動を行っている。

 特に大学は、企業依頼の形でサークルに仕事を斡旋している。

 下手なバイトより稼げること、藤木たる大企業の後ろ盾のお陰で、搾取や闇バイトに対する安全性も高い。

 サークル運営が上手く行けば、実績と経験を基盤として、そのまま起業するパターンは多い。

 実際、伊織は、ゆくゆく清掃会社の立ち上げを計画していた。

「掃除依頼なら快く受けるけど、弁当販売、荷物運送、役員の送迎は、いい加減にして欲しいね。特に役員送迎! 立場はあっちが上なのに、社長の孫って肩書きのせいで、あっちが萎縮して運転中は気が重い!」

「お~そりゃ学生としてかのう? それとも孫としてかのう?」

「両方だっての!」

 語気強めに返そうと、祖父は物言う孫を面白がっている。半分冷やかし、もう半分は試しているのだから人と性格が悪い。

「カレーは趣味で作っているのに、食べた伯父さんたちが、酒の席で社員に自慢したもんだから、社員のリクエストから作って販売する羽目になるし」

 社員の原動力は美味い食事から、と標榜のせいだ。

 その標榜を作ったのは、目の前の祖父だ。

 カレー弁当の調理及び販売を外部に委託しないのは、商いを自ら行わせ、現場経験を積ませるという社長たる祖父の方針だった。

「実際、評価は良かろうて」

 売り上げは薄利多売であるが。

「自慢のカレーだから当然!」

 今回のカレーも自信作。伊織は胸を堂々と張った。

 作る身として、美味しく平らげてくれるのは嬉しい。

 嬉しいが、五〇〇円のワンコイン。

 商いであるからこそ絡む利益は、ほとんど出ない。

 また食物を販売する以上、食品衛生法が関わるが、社員食堂の調理責任者を監修に置くことで解決していた。

「それにだ。キッチンカーや運転に必要な免許、日頃カレー研究で使う食材、調理器具を揃えるのに必要な資金の出所は、は~て~どこからじゃったかのう~?」

「汚ねえぞ、ジジイ」

 伊織の口が悪くなるのは当然である。

 社長として、祖父として、言われたならば、伊織に立つ瀬がない。

「生前分与した自社株を売却した金だろうて。全部カレーに使わず半分ほど、紗織の事業に投資して儲けとるみたいだし。投資するなら父親の事業にせんかい。この親不孝め」

「やかましいわ。親不孝なら親不孝通りでカレー売るぞ。紗織おばさんのは、スパイスや食材の卸を優遇してくれるから投資しただけだし、親父のほうは金入れるほど、困ってないだろう」

 日々変動する株価に目を白黒するより、カレーに関わる品々に使った方が効果的だと、伊織は半分ほど売り払った。

 祖父及び両親は、驚くどころか、やりやがったと大笑いだ。

「それに、だ。健と美智さんが嘆いておったぞ。いい加減、カレーばっかり作ってないで彼女ぐらい作れと。はよ、孫の顔見せてくれと。そんなんだから出会いがないんじゃよ。出会いないなら、わしが見合いセッティングしてやるぞ? 引く手数多で玉の輿狙いがあれこれおるぞ? 孫の顔見せられるぞ? わしも曾孫の顔見たいんじゃが?」

 鼻を鳴らした伊織は臆せず言い返す。

「それは結婚してる上のいとこたちに言ってくれ。別にインサイダーするわけでも、他企業に企業情報流しているわけでもない。ましてや中洲で豪遊しているわけでもねえ。カレー、バカにすんなっての!」

 真っ当な反論であるが、祖父は肩をすくめるしかない。

 カレー作りが趣味はともかく、熱意を並々に注ぐのは他者からすれば異質である。

 藤木伊織、三度の食事よりカレー好き。

 私とカレー、どっちが大事なの? と質問に迷いもなくカレーと答えて、中学生で三回、高校生で四回の破局を体験。

 理想の恋人を追い求めるのではなく、理想のカレー作りを目指している。

 学生の本分を疎かにせずとも、暇さえあればカレー研究を疎かにしない。カレーが絡むのなら、パンからうどんにラーメン、時に土から野菜を直に作るのすら厭わない。

 一時は、極上の牛肉を会得するために、牛一頭から育成計画を立てるも、家族一同から阻止されたほどだ。

 住宅街のド真ん中なのだから、阻止されて当然である。

「そりゃ、ドラッグや女遊びにハマらないだけマシかもしれんが、わしからすれば経営者の才能あるんじゃから、そっちのほうを伸ばして欲しいのう」

「そりゃ血縁なんだからあるでしょ」

 呼び出し理由は、老人の長話と説教ときた。

 くどくどと話し続ける人間にはなりたくないと誓うが、血縁故に至ってしまう未来が見てしまうのは悲しい。

 ただ先祖代々、ハゲてはいないため、この未来は嬉しいかもしれない。

「長話続けるなら俺は帰るよ。片づけとか売り上げの計上とかやることあるんだ。考案したカレーも試作したいし、レポートだってある。そっちだって呑気に孫と話し続けられるほど暇じゃないでしょ?」

 ソファーから立ち上がる伊織。だが祖父は慌てることなく、ゆったりした口調で告げた。

「まあ待て待て。お前さん、白川俊司しらかわしゅんじという男を覚えておるか?」

 伊織は、その名を聞くなり、ソファーに座り直した。

 目尻を鋭く、沈黙を保ったまま、祖父の次なる発言を待つ。

「話というのは、白川の件なんじゃよ」

「白川さんがどうかしたの?」

 伊織の口調は重く、疑問の色に染まっている。

 連なるように記憶にて引き出されるのは、一人の女性。

 藤木兄妹の末っ子、伊織の父、健の妹・里桜りお

 白川俊司は、里桜の婚約者であった。

 

 ――そう一〇年前までは。

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