第3話 カレーなる時間
福岡県博多区、某オフィス街。
いくつものビルが並び立つ中、ひときわ大きなビルがあった。
藤木総合グループビルと名のあるビル。
お昼時の今、このビル前には、複数台のキッチンカーが並び、働く者たちに午後への活力源となるランチボックスを販売していた。
「おい、聞いてんのかお前!」
そのキッチンカーの一台から男の怒号が響きわたる。
スーツ姿の中年男が、カレー臭だけを残したテーブルを挟んで、販売者を怒声で殴りつけていた。
販売者は中肉中背の青年。
ジャージの上から黄色いエプロンを身につけいる。
名前は
若々しく整った顔立ちだが、怒声を浴びせられている最中のせいで、怯えではなく半眼の呆れ顔ときた。
萎縮することなく、時折、自動ドアのほうに目を向ける。
遅いな、と心の内でため息ひとつである。
「そのカレーを売れないとか、ふざけてんのか! 俺は客だぞ!」
「だ~か~ら~何度も言ってますよね? この俺お手製カレー弁当は予約品なので、あなたにはお売りできないと」
伊織は丁重に告げるも、相手に声は届こうと意味は届かない。
「俺お手製とかバカにしてんのか! 予約なんてやってねえだろう! 月一、それも五〇〇食限定のカレーだぞ! 食えるのどれだけ心待ちにしてたと思ってんだ!」
正式な商品名なのだが、血糖値高めの容姿よりも、実際、高いのは頭のほうの血であった。
「素直に諦めてコンビニか近隣の食事どころ、あるいは社員食堂をご利用ください。ここの社飯は、設備と人材に投資しているので相応に美味いので」
伊織は相手の怒声に飲まれることなく、平坦に返す。
ここで素直に引き下がってくれれば、よかったのだろうが、頭に血の上った相手に常識は通じない。
男の視線がキッチンカーに向けられる。
正確にはキッチンカー側面。側面には<北博多大学サークル・クリーン>の文字がプリントされている。
男が口端を歪めてほくそ笑む。
一方で口端の変化に気づいた伊織は、失望するしかない。
ああ、終わったな、と。
開かれる自動ドアより、待望の人物が現れたからだ。
「その面、大学の二年か、三年か、なら今のうちに俺に恩を売っといたほうがいいぜ? なんせ俺は人事と――」
「あ、うちは売ってるのカレーだけなんで結構です」
やんわりきっぱり伊織は、溌剌した笑顔で断りを入れる。
話の腰を折られた男は、顔を灼熱色に染め、テーブルに手の平を叩きつける。
バンバンとやかましい。テーブルはサークル備品なのだ。破損すれば経費で落ちるか怪しい。
破損すれば損害賠償で訴えてやると心の中で誓う。
「実際売ってんのは、ケンカだろうが、ふざけんなよ!」
直に殴りかからないのは、一応は大人だが、言葉で殴るのは、子供染みている。
妥協と代案が浮かばない当たり、スーツの質からして優秀そうであるが、有能ではないようだ。
「ねえ、あの人」
「しっ、やめときなさい」
社員らしき人たちが、小声でやりとりする。
周囲の人々は、ただ見ているだけで、誰一人、伊織に助け船を出さない。
ただ共通しているのは、誰もが伊織と同じように哀れんだ目を男に向けている点だ。
「つべこべ言わずさっさと売れと言ってんだよ! お前、バイトだろうが! 話になんねえ! 責任者呼んでこい!」
最後は古典的な脅し文句ときた。
「あ~責任者ですか~?」
伊織は、白々しい顔つきで、先ほどから男の真後ろに立つ老人を見た。
男は頭に血が登っているせいで、真後ろの老人に気づいていない。
しわがあろうと活力に満ちた顔つき、白髪だろうと禿とは無縁の頭髪、スーツをシワなく着こなし、相応の年齢だろうと背筋は伸びている。
日頃は、般若が素面で、初対面の子供は泣かれるのだが、現在は恐ろしいほど、穏やかなまでの仏の顔であった。
教えていいのだろうか、伊織は逡巡する。
そのまま放置した方が面白い見せ物になるが、老人の目が早くしろと急かしている。
わしを餓え殺すのか――と語ってもいた。
早々くたばるタマでもないくせに――と目線で返しておいた。
「後ろにいる方が、カレー販売の責任者となります」
伊織はにっこり笑顔で案内する。
男は顔を赤黒くしたまま、真後ろの老人に怒鳴りつけんと振り返った。
「てめえか、どういうきょ、う、いく」
怒声が猛り上がったのは最初だけ。
竜頭蛇尾のごとく声は先細りとなっていく。
声だけではない。赤黒かった顔は瞬く間に青くなった。
「し、しゃ、しゃちぉ、ちょおお!」
男の変貌ぶりに青年どころか、周囲の人々すら笑いを堪えるので必死だった。
笑っては行けない。
いや笑わないと、後で面倒だが、やはり笑うのは失礼だと葛藤に苛まれる。
「どうも、わしがカレー弁当販売の最高権力責任者、
社長と呼ばれた老人は、穏やかな笑みを崩さない。
権力と蛇足があるあたり、意地が悪い。
「んで、これ、わしの弁当」
騒動の元であるカレー弁当の入った袋を、ひょっいと持ち上げた。
「し、しゃ、ちょうのでしたか、そ、そそ、それは大変失礼なことを!」
「いやいや、我先に行くと社員たちが萎縮するし、かといって最後に行けば残っとらん。だから、スポンサー権限で、孫に頼んで取り置きしてもらってたの。オッケ~?」
とある発言に、男の両目が見開き、歯の根が噛み合わなくなる。
「こやつ、九人いる下から二番目の孫」
穏やかな口調で社長は、伊織を指さした。
ただのバイトと思いこみ、怒鳴りつけた相手が、よもや社長の血縁者だった。
周囲は伊織を助けなかったのではない。
助ける必要性などなかったから、誰一人助けずにいた。
「どうも孫の一人です」
屈託のない笑みで伊織は、とどめをしっかりさしておいた。
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