落差

一日目

雪が降ると嬉しかった頃に戻りたい。

白さをうざったく感じるようになったのはいつからだろうか。眩しい。自分の薄汚さが目立って嫌だ。

風には針が含まれていた。俺を守る何枚もの衣服を簡単に通り抜け、俺を刺す。刺されたところがジンジンする。寒い、と言うかわりに舌打ちをする。

瞼を閉じたら死んでしまうと思った。いっそ死んでしまえば、と思いながら目に力をいれた。どうしてなんだか、俺が1番理解できない。

たったの数センチほどの雪に足を引っ張られる。全てに、無性にイライラする。「どこでもドアが欲しい」だなんて、可愛げのあることを言っていた幼少期が頭をよぎる。あの頃の「まだ薄暗い」は真っ黒な世界の前兆で、走って帰っていたこと。ポケットに手を入れて歩くと怒られるからと、もこもこで熊の刺繍が入った手袋をしていたこと。いろんなことが芋蔓式に思い出された。俺はポケットに手を突っ込み、足を引きずるようにして自宅を目指した。隣には暗闇が並んでいる。よく遊んでいた近所の公園を、通り過ぎていたことに気がつかなかった。


自動販売機の光が目に入った。目に入って、痛かった。眉間の皺を増やす。

男が、いた。

いつもなら見向きもしないベンチを二度見した。自販機の横に並ぶ、横長のベンチ。隣に座る人でも待つかのように、男は左端に寄って腰を掛けている。このベンチもかつて、友人との待ち合わせ場所の一つだったことを思い出した。

俺は男の前で足を止めた。止めてしまった。終わった、と思った。もう俺はここから、一歩踏み出す気力を生み出せそうになかった。

「何、してるんですか」

柄にもないことをする、というのはこういうことなんだと知る。白い息を漏らしながら、俺は男に話しかけていた。

男がゆっくりと、俺の顔を見上げる。俺はこのとき、一瞬、しかしはっきりと、この男を見下した。

「こんな寒いところで、あほなんじゃないすか」

あ、

ミスった。やらかした。

初対面の人にあほとかいう俺が一番あほに決まっている。寒さで頭がやられたか?舌打ちしそうになるのをぐっと堪えた。自分が思ったより幼稚であることにショックを受けた。

すみません、と口に述べるも、それに言い訳の言葉を続ける気力が湧いてこなかった。あの、ほんと、とだけ言って俺の口はとうとう動かなくなる。

男はしばらく俺の顔を見つめた。俺たちの間に、止む気配のない雪がしんしんと降り積もる。

男が手を口元に近づけた。時間の流れが遅いように思えた。男が何かをすすって初めて、彼が何かを握っていたと知る。コーンポタージュの缶だった。ふう、と男が息を吐く。

は、と言いかけた。イライラした。男の動作ひとつひとつが、やけにゆっくりなことにイライラした。無視されたことにイライラした。男の鼻の赤さが、一重な垂れ目が、缶で暖をとるかじかんだ手が唐突に憎たらしくなる。

男は声を発する前に、口を開いた。それが目視できることにイライラした。

「隣、座んないの」

声は思ったより高かった。例えるならば、元気な男子大学生か。

「は」

今度はしっかり言ってしまった。

「座んないすよ」

俺の苛立ちが燃えるほど、声量はゆらゆらと消えかけてゆく。例えるならば、上司の威圧と毛量の関係か。

男はコーンポタージュをすすりなおす。

「どうして?」

「いや、ケツ濡れるじゃないすか」

一拍置かれる。

「この、これコンポタなんだけど」

「…」

「それ、その目の前の自販機の、ちょっと割高な缶のやつ。これが特別に美味くてさ」

今度は俺が一拍置いてやった。

「そうなんすね」

男の顔をじっと見つめる。不機嫌な色など一切なく、むしろ満足そうにしてまたポタージュをすすった。俺は、バレないようにため息を吐く。

男は、俺の目を見て、口を開いた。

「教えてあげるよ」

「…は」

今日の俺はもうダメだ。認めざるを得なかった。こいつに上から目線で話されることがこの世で一番腹立つ。たった今そう決まった。

やめよう。もう帰ろう。さっさと足を出せ、俺。動けよ、俺の足。

何もかも全部だめだめだ。俺の足はこいつよりゆっくりらしい。

「このコンポタ、」

男が話し出す。男の目線はいつの間にか缶に移っていた。

「これがさ、買うことで『飲む』っていう仕事を与えてくれるんだ。だからこいつを飲んでる間はぼーっとしてていいんだ、だって『コーンポタージュを飲む』という作業をしてるんだから。ついでに今日なんて雪が降ってる。雪は普段見ている景色を変えてくれるだろ。だから今日ここでぼーっとしている時間は『普段と違う景色を見ている時間』なんだ。ほら、少し許される気がするだろ」

俺は、びっくりした。

相当な阿呆面をしている自覚がある。知らなかった、俺は誰かが急にたくさん話し出すとびっくりするらしい。

男はポタージュをずずっとすすった。

「ま、普段と変わらなくたって、何にも飲んでいなくなって、ぼーっとしてていいんだけど。僕はこうやって生きていくんだ、少しだけ生きやすくして日々を過ごすんだよ」

そう言い切って、缶を揺さぶりだす。中のコーンを出そうとしているらしい。

今なら、俺の足も動き出すだろうか。俺は迷う。迷ったから、もうしばらく迷うことにした。

男をぼーっと見つめてみる。缶を振ったり逆さまにしたり、指で叩いたり弾いたりするその作業を眺めた。見方によっては醜いな、と思った。愉快だとも思った。ただ、こいつは今少し許されてるんだって、それが少しだけ羨ましかった。

男がぐいーっと缶をあおり、満足そうな笑みと共にため息をついた。コーンを食べ切ったようだ。俺は、最後の一粒はもうそれほど美味しさを感じないと知っている。それでも、美味しさを超えた達成感を味わえると知っている。そうか、と思った。そんなこと知ってるのか、俺。

雪はずっと降り続けていたけど、俺は今再び降り出したかのように感じていた。さっき男を眺めている間、景色がどんなだったかが思い出せなかった。

ああ、さっきまでの俺も少し許されていたのか。気づいてしまった。だから、もう今は許されていなかった。ふう、と小さくため息を吐く。

男がゆっくり、俺の方を見る。隣、座んないの、と問われた。男の顔を見つめかえす。

雪はしんしんと降り続けている。

俺はゆっくりと口を開けた。

「いや、無理そうっす」

ゆっくりと、男から目を逸らす。

足を踏み出した。もう、歩けた。歩かなければならなくなったから。

「今度これ、飲んでみてよね」

男の声が少し大きくなる。優しいな、と思う。同時に、少し苛立つ。そんな自分にも苛立った。

「君、今自分はちょっとも許されてないって顔、してるから」

俺は、振り返らない。

振り返っては、いけない。


何日経っただろうか。あれ以来しばらく降っていなかった雪が今日、舞い散ってきた。俺は多分、少し嬉しかった。そうであることに少し腹が立った。

雪を見ながら帰った。足取りは少し軽かった。あいつがいるかとか、コンポタ缶が売ってるかとか、ずっとこれからの可能性を考えていた。近所の公園が目に留まった。そういえば、今日は幼少期を思い出さなかった。

自販機の光が目に入った。目に入って、痛かった。少しワクワクした自分に、心の底から驚いてしまった。

ポケットから財布を出す。えーっと、コンポタ缶は、あ、あった。は、と安堵のため息を吐く。かじかんだ手は動かしにくくて、自分のものではないみたいだった。小銭までも冬を含んでいて、冷たい。俺は今、五感で冬を感じている。

ごとん、と自販機が缶を吐き出す。異彩を放つこの缶の温かさが、冬によく馴染むから不思議だ。

自分の呼吸が少しはやくなったのがわかる。何故なんだか、足の歩みは少しだけゆっくりになる。ベンチに腰を下ろした。そういやズボン濡れるんだった、と思う。やっちゃった、という気持ちもしっかり咀嚼してみた。少しだけ口角が上がってしまった。

缶を開ける。温かみで指がじんじんする。は、とまた息を漏らした。ゆっくり、缶を傾ける。湯気が口元を蒸らす。コーンポタージュが思っていたより遠い。どこか緊張させられてしまう。

ずず、とコーンポタージュをすする。

「あちっ」

声が漏れて、びっくりした。俺って、独り言言えるのか。今自分がどんな表情をしているのかわからなかった。

ため息を、ついた。白い息が消えるのを見届ける。

ゆっくりと、口を開いた。

「くそがよ」

ちょっと元気が出るから、腹が立つ。


座ってからどれほど経っただろうか。

暗闇の中から、足音が聞こえてくる気がした。

雪はしんしんと降り続けているけど、俺は音がしてくる方へ、ゆっくりと、ゆっくりと目を向ける。

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