第一章 発端

一. 八月二〇日(月) 一八時〇九分

 大泉おおいずみ高校第二学年の篠田しのだ仁奈子になこは、先ほどまで乗っていた黄色い電車を見送って真新しいホーム階段を駆け下りていった。この前の改装工事でホーム構造が大きく変ってしまったことにも、最近ようやく慣れてきた。改札の天井には「富士見台ふじみだい駅」と白い看板が吊り下げられている。水色に塗られた壁に、掃除の行き届いたタイル。駅構内には無機質な清潔感が漂っていた。

 夏休みも終焉が近く、ともすれば予鈴が聞こえてきそうな頃合いであったが、基本的に仁奈子は涼しい部屋で漫然と本を読んだり、小説を書いたりしているだけ。懈怠けたい懶惰らんだと共同生活を送っていた。二週間に一回しかない文芸部の活動にさえ、どうしてこんな蒸し暑い季節にわざわざセーラー服に着替え、額の汗を拭いながら登下校しなければならないのかと文句を垂れていた。

 パン屋の芳醇な香りを嗅ぎながら改札を抜けて通りに出ると、道の両側に立ち並んでいる店々が目に入る。汚いながらも活気に満ちた商店街は、買い物袋を持った主婦でごった返していた。

「あっ危ない」

 仁奈子は咄嗟に手を伸ばす。足首をひねってバランスを崩した眼前の老婦人を支えるためだ。もう少し反応が遅ければ派手に転んでいただろう婦人は、ありがとう、と言って仁奈子の脇を通り過ぎた。こういうとき、無駄にいい反射神経は役に立つ。

「あっつい」

 小さくつぶやいて再び歩き始める。振り返ることなく商店街を後にした。


「ただいま」

 おかえり、と返事が聞こえる。仁奈子の母、宮子みやこが玄関に顔を出した。

「ずいぶん遅いのね」

「ああ、部活がちょっとね――」

 その時、仁奈子は自己のうっかりに気づいた。いつもよりも遅く帰宅する直接理由を途端に思い出したのである。確かに、部活動が長引いたのは事実だが、もっと重大な出来事をいつの間にか失念していたらしかった。

「肝試し問題……」

「何試し……?」

 宮子を無視して上がりかまちに乗る。下駄箱に革靴をしまって宮子に立ち直ると、目の前で何か言いたそうに突っ立っていて、思わず見下ろされた。

「どいて、洗面所行くから」

「そうだ。明日古紙回収の日だから今晩中にゴミ置き場出しといてくれる?」

「めんどい」

「これバイバイするの逃したら一か月後、雑紙は算術級数的に増えているだろうから、その分手間も算術級数的に増えるでしょうね」

 そう言ってにやにや笑う宮子が指さす場所、玄関の隅には、雑誌、雑紙の山。大方この前の大掃除で出てきたのだろう。

「眼鏡、曲がってるわ」

 宮子は仁奈子のハーフリム眼鏡に手を伸ばす。宮子に吹きかけるようため息をついて、さっさと手を洗いに行った。宮子と一緒に話していると何だか調子が狂うようである。それから、面倒で教えてやらなかったが、肝の他に試すものなどあるのだろうか……運か……いやいや、肝試し。汗でべとつく頬を濯ぎながら、一部始終を思い出していた。


 文芸部の活動が終った仁奈子は、何か忘れ物していないかE組の自席周りを検分していた。お、篠田、と呼ぶ声がする。

「ちょっといいか」

 そう語りかける目の前で直立している男。失礼ながら、名前を思い出すことができなかった。

「あのさ、今E組で肝試し行こうみたいな話あってさ、いやそれでさ、いやもう夏休みも終るじゃん。だけど、体育祭の打ち上げのあとクラスで何もやってないから。親睦深めるって目的、らしいよ、って俺は聞いただけだけど。別に無理に来いとは言わないけど、まあだから、来たら? みたいな話……。ていうかお前この話聞いてなかったのか」

 仁奈子は男を見続ける。名札でも付けていないかしら、と思っていると透き通るような声がした。

「あれ、仁奈子じゃん。ん、髙橋たかはしくんも何してるの?」

 ああ、髙橋。そうだ、髙橋龍生りゅうせいだ。声のした教室の入口を見ると、一人、白皙はくせきの少女――岡野おかの帆花ほのかが夕日に照らされて立っていた。帆花は仁奈子の幼馴染で、二年E組所属。つまりクラスメート。ひし形を入れたショートボブの髪は光の加減で茶髪に見える。いやはや、龍生とかいう人、いたなあ。ホッと一息ついて蜜柑色に染まった教室に目をやる。強い光に思わず手をかざした。指の隙間から垣間見えたのは銀の窓枠とその向うにある雲で、壁掛け時計から響く秒針の音さえ心地がよいと感じる。

「まあ、なんていうか、お前も聞いてると思うけどそういう話なんで伝えておいたから。今週末にやるんで、行く気になったらメールでもなんでも連絡よこして」

 そう言い捨てた龍生は用があるから、とすぐにいなくなる。仁奈子と帆花の二人が残された。


 今に至る。


 ……面白くない。何よりも龍生に対して申し訳ないと思った。忘れていた名前に気を取られ、話に興味がある素振りすら見せず、思わぬ助け舟で名前を思い出したのはよかったが、悠々自適に雲を眺めているのだからどうしようもない。こういった鈍重緩慢な一面を持つ自分を好きでなかった。マイペースで馬鹿で間抜けなくせに計算高い結構最悪の性格をしている宮子を反面教師としている自負を一応は持っている。だのに、気が抜けるとボケボケしてしまうのだ。人格形成には、環境的要因だけでなく、遺伝的素因の影響も無視できない何よりの証左だ。全然面白くない。


 帆花に肝試しの話を相談しようと思い立って電話をかけたところまではよかったが、回線は使用中だった。帆花がインターネットサーフィンでもしているのだろう。となると、メールを送る他ない。仁奈子はメールで要件を伝える作業を得意としていなかった、もとい、意識的にメールを避けていた。トグル入力が苦手なだけ、というのはここだけの話である。


 To……岡野帆花

 Sub……何か気の利いた件名でも設定しようとするが、思いつかないので書かない。

 重要なのは中身だ。


 電話したけど出なかった( ; ; )またインターネットやってるんでしょ。回線変えな^o^


 で、さっき教室で会ったとき、たかはし君と肝試しの話をしてたんだけど。


 その後帆花すぐいなくなったから帆花も肝試し行くのか聞けませんでした)^o^( ^o^)


 帆花は肝試し行く??クラスで行くみたいだけど


「これでよし」

 今日の火曜サスペンス劇場は何だっただろうか、と考えながら立ち上がった瞬間、バストアムーブのキーホルダーが震えた。小窓を確認すると「岡野帆花」からのメールである。


 Time/2001/08/20/18:52

 From/岡野帆花

 Sub/Re:無題

 行くよ!!


 ―――END―――

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