第2章 半グレ、青鬼編10 己の殻を破る
京一はどうしてもこの勝負から逃げることができなかった。
逃げてしまえば、勝負の結果より遥かに大切な何かを無くしてしまう。
そんな気がしたのだ。
高見「……」
太一「……」
そんな京一の苦しみを、高見と太一はゲーム内のキャラクターを観察するような視線で眺めている。
他人事なのだろう。
強者が弱者を支配する。
これがストリートのルール。
絶対の強者、青鬼の敷くルールからは逃れられない。
でも逃げ出したい。
一目散に逃げ出し、安息の部屋に逃げ帰りたい。
暖かい世界の中だけでずっとずっと過ごしていきたい。
京一は己の心の弱い部分を晒されてゆく感覚を覚えた。
それは己の目指す姿、ヒーローの姿からは遠かった。
太一「どうした天川。ビビってんのか?」
見下すような視線だ。
京一「くっ……」
身体が無事なまま10点差をつけるにはどうすればいい?
必死に考える。
胸の痛みがまだジンジンと奥に残り燻っている。
再びあんな突きを喰らったら1時間は立ち上がれない。
そうなればこの勝負は終わりだ。
金髪への制裁が執行される。
京一は恐怖と焦りで叫び出しそうになった。
太一「じゃあ、俺からいくぜ」
のそり。
京一の傍に歩み寄ると、太一は容易くボールを奪い盗る。
その間、京一は全く動けなかった。
恐怖と不安と焦燥間で、身体のコントロールを失ったのだ。
京一「っ!」
ボールを奪われた瞬間、悲鳴に近い声を出そうとしたが、音にはならなかった。
タン、タン、タン、タン。
太一は京一が追ってこないことを確認すると、悠然と歩きながらゴール直下に進む。
完全に京一のことを舐めている。
トン。
そしてリングの真下から軽い力でボールを放り投げた。
パスン。
ボールはあっさりリングを通過する。
8対8
太一は大きな手の平でボールを掴み上げると、京一に投げ渡した。
直線的で無駄のない軌跡が京一の手元に突き刺さる。
呆然としたままボールを受け取る京一は絶叫する。
京一「嫌だ……こんなの嫌です! 高見さん! やめてくださいっ」
悲鳴に近い。
泣くような声で勝負の中止を申し出る。
高見はそんな京一の様子を無表情のまま眺める。
それから突如として、伸悦の左手に突き立てたナイフを握り締めると、グリップを左右に振ってグリグリ押し込んでゆく。
ぐっぐぐぐ……グリグリグリッ“
伸悦「がっっ! ぎゃあっっっ! 痛てっー痛てっーよぉ」
辺り一面に伸悦の悲鳴が響き渡る。
京一「なっ?!」
なんでそんなことするんだ!
そう叫びそうになり、寸前で止める。
非難したところでどうにもならない。
この場を支配しているのは高見だ。
そして、このコートを支配するのが太一だ。
彼らの仕掛けた勝負から逃れるには、10点差をつけて勝つしかない。
だがそんなことができるとは到底思えない。
弱い心に支配された京一は、泣きそうな顔で伸悦を見る。
京一「……」
伸悦「はぁ……はぁ……はぁ」
一方、伸悦は縋るような顔で京一を見ている。
額にジットリと汗が浮かび上がっている。
苦しむ様子が遠目からでも視認できた。
伸悦は左手から鮮血を垂れ流し、必死に痛みに耐えている。
ナイフを突き立てられて、もう何分が経過しただろう?
そろそろ耐えている心が限界に達するかもしれない。
この苦境から伸悦を解放するには、京一が10点差をつけて太一に勝つしかないのだ。
でも。
伸悦「てんかわ……たすけて……」
消え入りそうな声だ。
京一「そ、そんな……、高見さん! もう彼を許してください! このままじゃ失血で死んじゃいます!」
叫ぶ。
だが高見は無表情のまま京一の言葉に動じない。
高見「天川。お前がもう負けを認めるんなら、それでもいいぜ。そのかわり、コイツの左手はこの場で俺が切り落とす」
淡々と告げる。
京一「そんな……」
どうしろというのか?
逃げ場のない精神の袋小路に追い詰められてゆく。
京一「うぅ……」
今、どんな顔をしているだろう?
泣きそうな己の姿が目に浮かぶ。
恐怖に怯え、うっすらと涙が出ているのだ。
情けない……。
本当に情けない。
惨めに追い詰められた脳裏に、不意に蓮華の顔が浮かんだ。
こんな京一の姿を見た蓮華はどう思うだろう?
弱々しい。
未熟で無力でかっこ悪い。
そう思われるに違いない。
京一「くっ! (だからなんだ? なんなんだよ?! 弱い僕の何が気に入らないんだよっ?)」
心の中が勝手に動く。
別に弱くてもいいじゃないか。
負けたっていいじゃないか。
ここから逃げ出したっていいじゃないか。
だって。
京一「僕は困らないんだから……」
ポツリ、本音が口を伝い出る。
ベンチで苦しむ伸悦がどうなろうが関係ない。
だって京一が苦しむ訳じゃないのだから。
京一が痛みを感じるわけじゃないのだから。
逃げ回って、隠れて、遠ざけて、永遠に知らない顔をしていればいいではないか。
「逃げろ」
京一の中で結論が出る。
「でもっ!」
それが寸前のところで押し留まる。
誰から逃げるのか?
高見という男からか?
太一という男から?
それとも伸悦という男からか?
違う。
京一「君から……蓮華から……琴野蓮華という名のキミから……僕は逃げるのか?」
京一の視界の中を、不意に黒い影が走る。
ユラリ。
それは京一の無意識に働きかけ、心の奥底にしまった何かを開いた。
あぁ、そうだ。
思い出す。
京一「そう言えば……蓮華という名前は母さんの名前だったっけ……」
母さん。
僕の母さん。
とても大切なひと。
僕はこのまま、母さんからも逃げるのか?
あの時のように。
病院のベッドの上で、徐々に力尽きてゆく母さんを見たあの日のように。
違う。
無力は罪だ。
何もできないことは罪悪だ。
ただ見ていることしかできないのは罪の中の罪だ。
あの時僕はそう思った。
誇りを失えば全てを失う。
僕は弱い。
理想とする姿からはほど遠い。
でもっ!
僕が本当に嫌なのは弱いことじゃない!
本当に嫌なのは、何もせず弱いままに守れないことだっ!
他でもない。
君を。
キミを。
蓮華を。
理想からかけ離れた今、京一の心の奥底で雷鳴が鳴り響く。
雷のような衝撃がこの脳髄を破壊し、バリバリと殻を破っていく。
思い出す。
そうだ。
そうだった。
僕はヒーローになりたかった。
君を助けるヒーローになりたかった。
だから最後に想像してみる。
もしも、ベンチで苦しむ伸悦が“蓮華”であったなら? と。
ドンッッッッッッ!!!
京一の中心で爆発が起きた。
その衝撃は拳銃の撃鉄が落ち、強烈な銃弾がはじき出されるかの如くであった。
ここで逃げてどうする。
蓮華を見捨てて逃げ出してどうする。
カァァァァァァァッッッッ!
京一は自身の身体の中心、へその奥の奥が急速に熱せられてゆくことを感じた。
先ほどまでは恐怖ですくみあがった身体を、高熱を帯びた血液が循環し始める。
ベンチに座ったままの高見は、静かにじぃっと京一の腹の辺りを見つめている。
無表情は変わらない。
ただ京一の奥の奥に仕舞われた何かを探り出した。
京一は高見の視線に気づかない。
ただ静かに、目の前で仁王立ちする太一を睨みつけた。
京一「行きます」
告げる。
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