第2章 修行編8 蓮華の名を持つ二人
夕暮れ時にあって7月の風は生暖かい。
自宅に向かい、帰路に就く。
バッシュと練習用のユニフォームをリュックに入れて背中からぶら下げて歩く。
慎二と高瀬と京一の3人で帰宅の途についている。
高瀬「なぁ天川。お前もたいがい試練が来るよなぁ」
京一「そ、そうすか?」
高瀬「だって駅前で3 on 3やって来いなんて、そんな指示が飛ぶとは想像もしなかったよ。しかも準決勝の当日だぜ? その試合にシューティングガードのお前が出ないってさ。正直コーチの指示を聞いた時信じられなかったよ……」
先輩の高瀬が率直な意見を述べる。
慎二「いや高瀬先輩。俺、あそこぜってーヤベェって思いますよ!」
目を大きく見開き慎二が高瀬の発言に重ねる。
駅前コートの事情を良く知っているのだ。
慎二「あそこって南商業高校の縄張りっすよね? 南商っていったらカツアゲも恐喝も何でもありのこの辺じゃ底辺高っすよ」
高瀬「だよな」
京一「う……」
慎二「俺、3on3やってるのたまに見るんすけど、あれバスケっつーか、リンチっすよね? 南商のヤツらが気に入らない中高生を呼びつけて、3on3って名目で試合して、負けたらカツアゲですよ。しかも試合中は蹴ったり、殴ったり、やりたい放題」
京一「……」
3on3はストリートバスケであるが、駅前コートで繰り広げられるのは3on3という名のリンチだ。
普通の感覚の中学生男子であれば、まず近寄らない場所だ。
高瀬「あぁ知ってる。俺もたまに見るから。ヒデェよな、あそこ。てかビビる、マジで」
京一「……」
段々と京一の顔が引きつってゆく。
慎二「で、南商つったら、その上に半グレチームの青鬼がいますよね?」
京一「え、あ、青鬼……?」
ゴクリ。
生唾を飲み込む。
背筋を嫌な汗が伝う。
慎二「青鬼って超コエー人達っすよ。奴らに睨まれたら、まともな学生生活なんてできないっすよ。拉致られてボコられて病院送りっすからね。コーチもすっごい指示出しましたよねぇ。知ってんのかなぁ、あの場所の現状を……」
慎二はあの場に派遣されるのが自分でないからであろう、どこか他人事の様子でコートの惨状をアレコレ話す。
高瀬「だよなぁ」
多少はコートのことを知っている高瀬も同調する。
それから二人とも京一をじっと見る。
京一「ま、ま、まじすか……」
顔面も身体もガッチガッチに引きつっている。
可哀想なくらいだ。
高瀬「なぁ天川。お前、当日3 on 3の試合やったってコーチにウソ言ってもいいぞ。俺ら、話合わせるからさ」
先輩の高瀬は本気で心配しているようだ。
普通に考えれば、中学生が一人で行ってゲームに混ぜてもらえるはずがない。
カツアゲか、ボコられるか、嬲られるかのいずれかだ。
慎二「ですよねぇ。俺もそう思います。京一、おまえサボってもいいぞ。当日は家で寝てろよ」
慎二も同調する。
コーチに何か考えあってのことだろうとは思うが、あまりに酷な指示だと思ったのだ。
京一「いや……僕、やるよ」
トボトボと歩きながらも、飛び込み試合をする意思を示す。
真面目なのか?
京一は指示に反するという選択肢を持っていなかった。
高瀬「まぁ、天川の意思次第だけどさ。俺はお前があそこに行かなくても何も知らなかったことにするから、それは覚えといて」
慎二「俺も」
二人とも京一を思いやってのことだ。
心の根はやさしい少年達である。
京一「はい。ありがとうございます。でも行きます。行って戦ってきます。まぁ結果はあとでお知らせします。だから先輩たちもぜったい勝ってくださいよ。準決勝。僕は信じてます」
京一は、覚悟を決める。
だから、高瀬や慎二にも勝利を求めた。
二人にも京一の覚悟と意思が伝わった。
高瀬「そうか……行くか」
ならば自分たちも覚悟を決めるしかない。
高瀬「任せろ、天川。俺はお前にだけ辛い思いはさせないぞ。この足が壊れたって、準決勝は勝つ。そんで一緒に決勝にいこうぜ。長谷中を叩き潰そう!」
慎二「京一、当日は俺がお前のシューティングガードポジションを守る。心配すんな。勝つよ」
二人とも強い眼差しになる。
高瀬「うっしゃー、じゃ拳合わそうぜ!」
力強く握りしめた右手を前方に差し出す。
慎二、京一「ウス! 先輩」
二人もこぶしを握り締め、高瀬のそれにコツンとぶつける。
高瀬、慎二、京一「幹中(みきちゅう)バスケ部! ファイオー!」
コンコンコンッ!
大きな声で叫び、互いの腕を2度3度とぶつけ合った。
帰宅途中のサラリーマンがあまりの大声にびっくりして「うぉ」と声を上げた。
だが、中学生たちの単なる気合だと分かると、すぐに視線を戻して歩き出す。
驚かすな、という声が彼の背中越しに聞こえてきた。
京一は帰宅してすぐに熱い風呂に入った。
そして、寝るまでの間、何度も何度も当日のタラレバを繰り返し想像して、心の準備を整えた。
無駄に緊張して眠れないと思ったが、思いのほか身体がつかれていたのだろう、布団にはいって10分と経たずに眠りに落ちた。
☆-----☆-----☆-----☆-----☆-----
この日の夜、京一は夢を見た。
ちょうど6歳になった頃の記憶である。
まだ京一の母親は存命で、病院で過ごしていた。
京一はこの辺りの記憶を頭の奥深くに閉じ込めており、普段は思い出すことがない。
悲しい想い出しかないからだ。
だが極まれに、睡眠によって意識を手放すことで自我が薄れ、潜在意識が記憶の深い部分にアクセスすることがある。
これはそんな稀な夢のお話である。
夢の中で6歳の京一は病院のベッドに腰かけ、母親に寄りかかってフォトアルバムを眺めている。
デジカメやスマートフォンのアルバムではない。
光沢紙に印刷された写真である。
両親は幼い頃の京一の写真をバインダーに閉じて、大切に保管していた。
そんな写真の中に、2歳頃の京一と、茶色の毛をした子犬が一緒に写っていた。
京一「……あ」
ポツリ。
6歳の京一が呟く。
そして指先を口元にそっと当てる。
京一は写真の中の自分にではなく、子犬を見て反応した。
胸がギュッとしたのだ。
どうしてギュっとしたのか理由は分からない。
ただ、失くしてはいけない何かを思い出したのだ。
まだ京一が生まれて間もない頃、両親と共に暮らす家には一匹の子犬がいた。
血統書がつくような室内犬ではない。
近所で飼われていた雑種が生んだ子犬である。
子犬は「ムク」と名付けられた。
ムクは幼い京一が大好きだった。
だから毎日のように京一にまとわりついた。
ムクも子犬であったが、京一もヨチヨチ歩きのレベルである。
じゃれつかれると、そのまま地面に押し倒されてしまう。
ムクは嬉しそうに京一のお腹の上に乗ると、顔をひたすらペロペロ舐めた。
それは愛情表現だったのだろう。
京一がどれだけムクを引き離しても、すぐにじゃれつき、ペロペロ舐める。
ムク「ハッハッハッ」
それがあまりにしつこくて、京一は泣き叫ぶ。
ビィビィと、それはもう本当にビィビィと。
それでもムクはペロペロを止めてはくれなかった。
京一が大好きなのだ。
だからその度に母親は京一のお腹からムクを降ろし、代わりに京一を抱きかかえる。
そしてペロペロ舐められて湿った顔に頬ずりする。
母親「うぅん、京一のほっぺ~~」
京一「うぅ……」
京一はそうやって母親に頬ずりされると、すぐに泣き止んだ。
母親「ねえ京吾、この子はムクが嫌いなのかしら?」
母親はニコニコしながら二人の様子を眺めている父親に問いかける。
父親「そうだなぁ、まだ小さいから子犬のじゃれつきが鬱陶しいのかもなぁ」
母親「そう……しばらく様子をみて、どうしても合わないようなら、やっぱりムクは手放さないといけないわね」
母親は寂しそうな顔で足元にじゃれつくムクを眺める。
父親「そうだなぁ、せっかくお社にも慣れたばかりで、少し可哀そうだけどなぁ」
2歳になったばかりの京一は、両親の言葉を理解できなかった。
ただ頬をペロペロ舐めるムクが鬱陶しかった。
知らないうちに、ムクはいなくなっていた。
幼い頃はそれだけの記憶だった。
京一はムクのことをいつの間にか忘れていた。
それで良かったし、何の不都合も無かった。
だが小学生に上がり、6歳になって分別がつくようになった頃、京一はムクの存在を思い出す。
なぜなら、病院のベッドの上で母に寄り添いアルバムを見ていると、そこにムクが写っていたからだ。
写真は何枚もあった。
それはもう本当に何枚も。
全ての写真で、ムクは幼い京一を見つめていた。
二つの瞳が輝いていた。
京一を大好きであることが写真から伝わってくる。
だが当時の京一はムクを嫌っていた。
自分のことを大好きでいてくれたにも関わらず。
チクリ……。
6歳の京一の胸が痛む。
アルバムの中の写真を見る度に、あの生暖かい、ムクのペロペロ舐めてくる感触を思い出す。
今なら、ムクがじゃれついてきても地面に尻もちつくことはない。
アルバムの中のムクはとても可愛いい子犬だった。
どうしてあの時は鬱陶しいなんて思ったのだろう?
ムクは京一が気づいた時にはもういなかった。
京一(6歳)「ムクはどうなったの?」
母親にムクの行方を聞いてみる。
母親「ん、ムク? ムクは別のご家庭に引き取ってもらったわ」
京一のまっすぐな瞳を見つめながら、母はそう告げる。
京一(6歳)「ムクは、ムクはその家で元気なの? ねぇ、元気なの?」
幼い京一は、矢継ぎ早にムクの“今”について尋ねる。
母親「そうねぇ、たぶん元気だと思うわよ。でも引き取って頂いてからはよく知らないの」
京一(6歳)「ふぅーん……」
幼い京一はアルバムの中のムクをじぃっと見つめたまま動かなくなる。
ムクは元気なのだろうか?
ひょっとしたら新しいお家で辛い思いをしているかもしれない。
新しい家族に馴染めず、泣いているかもしれない。
イジメられてはいないだろうか?
あるいは今、京一がムクの傍に行けば、駆け寄り、またペロペロ舐めてくれるのではないか?
そんな思いが一気に溢れて、京一の心の中を埋め尽くす。
ポタポタポタ……。
あの時、ムクを鬱陶しいなんて言わなければよかった。
ペロペロ舐められても、じっと我慢していればよかった。
なぜそれができなかったのだろう?
そのことが京一の胸をギュウッと締め付ける。
あの時に戻りたい。
そして両親に伝えたい。
ムクを手放さないで、と。
京一はアルバムの中のムクを見つめながらポロポロ涙を零した。
その涙は、アルバムに手を添えた母親の、白く華奢な指先にぽたぽたと滴り落ちた。
母はそんな京一の頭をやさしく何度も何度も撫でた。
京一はなんとなく理解していた。
この世界には、一度別れてしまうと二度と会えなくなる人がいる。
その別れが訪れた後、再び出会うことをどれだけ強く求めても叶わない。
そしてこの日の後、別れを迎える人が、京一にとって最も大切な人であり、今、こうして傍にいて頭を撫でてくれる人であることも。
京一はムクの記憶を辿りながら、避けられない母親との別離を感じ取っていた。
その痛みは、まだ幼く、負の感情を消化できない京一の胸を抉り取る。
どうすれば悲しい未来を変えられるのだろう?
その方法が分からなかった。
ただ、刻々と過ぎてゆく時間が怖かった。
京一(現在)「うっ……うぅん……」
気づけば全身に力が入っており、布団の中で寝汗をかいていた。
チュンチュン、チチチ……
スズメたちの鳴き声がする。
外は薄っすらと明るくなっている。
京一「……」
京一は夢の中から現実に戻って来る。
瞼を開けば、目じりを冷たい雫が伝う。
昔の記憶、特に母親の夢を見た後は、いつも涙で目尻が濡れていた。
京一「ふぅ……」
布団の中で仰向けになり、手の平を命一杯に開きながら天井に突き出してみる。
幼い頃の写真に比べて随分と大きくなった。
母親は成長した手の平を見ることなく、この世を去った。
京一「僕は今、こうして生きている」
慎二や高瀬、友達もたくさんできた。
バスケだって随分上手になった。
そのことを母親に伝えて安心させたかった。
京一はまだ、どこかに母が生きているんじゃないかと思うのだ。
どうすれば会えるだろうかとも考える。
天川蓮華。
母の名前。
その名を呟く時、いつも蓮華の姿が瞼の奥に浮かび上がり、そしてゆっくりと消えてゆく。
京一「蓮華は……母さんじゃない」
口ではいつもそう言える。
だが蓮華の姿を記憶の中で反芻する度に、幼い頃の、母を亡くしたときの気持ちが鮮明に蘇る。
京一はその度に強く思うのだ。
再びは手放さない。
同じ間違いは二度としない。
心の奥深くで何度も誓う。
京一は心の中で、蓮華が母親の存在と重なってゆくことを薄々感じていた。
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