第2話 平穏の終わり
人類圏歴3103年6月20日、三週目の
その日の異世界の空は、雲ひとつない快晴だった。
そんな青一色の空を見上げながら、少年は今日もいつものように、日課の修行をこなしていいた。
修行内容は、重力負荷付き感◯の正拳突き——転生できたことに感謝し、凡夫にならないために行う修行の一つだ。
「9998……9999……10000……!」
ついに一万回目の突きを終えた瞬間、全身に疲労が広がる。汗が滴り落ち、拳に残る熱がじわじわと肌を刺激する。この充実感こそが修行の醍醐味だ。
それなのに、少年の胸に広がるのは得体の知れない苛立ちと退屈さだった。
「終わった……」
拳を握りしめたまま少年は空を仰ぐ。達成感なんて微塵も感じられない。ただ、心の奥底から焦燥感が湧き上がるばかりだ。
少年の名前はアメジア。
転生してこの異世界で二度目の人生を送っている、13歳の人間の子供だ。
容姿はかなりいい。
金髪に紅い瞳、整った顔立ち——中性的で美少年と言ってもいいだろう。
一応、日課の鍛錬がもたらした引き締まった筋肉が確かに男であることを物語っている。だが、それさえなければ十分に男の娘として性別詐欺をはたらくこともできそうだ。
だが……
(特別なのは、まだこの外見だけか……他はまだ全然凡夫だ)
頭を拗らせていたアメジアは、鏡で自身の姿を見る度に不満を募らせていた。
(第一に最強の力、第二に最強の魔法、第三に最強の筋肉……凡夫と決別するためにも、偉業を果たすためにも、とにかくまずは特別な力が必要なんだ!)
そんな拗らせたことをいつも考えていたからだ。
アメジアはこの異世界に転生した瞬間から、「凡夫ではない」人生を歩むつもりでいた。
力をつけたら迷宮にでも潜る予定だった。人々から恐れられている怪物を討伐し、名声を轟かせるつもりでいた。
前世の知識で覚えている物語の勇者も、漫画やアニメの主人公も、神話を彩った英雄たちも——その殆どが皆、特別な運命を与えられ苦難へと挑戦していた。
ある無双の大英雄は神から十二の試練を与えられ、それを乗り越えて力を手にした。
また、ある龍殺しの英雄は邪龍を屠り、その名を永遠に刻んだ。
そんな彼らのように、アメジアもなりたかったからだ。
「だから、この世界で僕もそういった苦難に挑む特別なことをしないといけないのに……これじゃあ転生した意味がない……」
けれど、現実は違った。転生して13年……困難に挑む機会や波乱に満ちた出来事は一度も訪れなかった。
(このままだと、せっかく転生して特別な存在になったのに、また凡夫なまま生きることになってしまう……)
そんな不安がアメジアの胸を締め付けた。
アメジアは凡夫という言葉に対して強く拗らせた想いを持っていた。
何故か凡夫な存在が嫌いだった。同時にそんな凡夫な存在の対局に位置する特別な存在に対して強く憧れを持っていた。
そして、アメジアにとっての「最も特別な存在」とは「最強」の存在だ。
最強以外は皆凡夫。
そんな単純で無茶で拗らせた方程式だと自分でも思うが、それでも胸の内ではそれが揺るぎない結論として燃え上がっていた。
これまでの13年間、アメジアはその最強を目指して修行の日々を送ってきた。
幼少期から、前世の知識を駆使して鍛錬に励んだ。母から学んだ重力操作の魔法を利用した重力負荷の訓練、独自の魔法のイメージトレーニングや魔力操作法。その努力の甲斐あって、実は百年以上生きているハーフエルフの母を除けば、村の大人たちを含め、アメジアに匹敵する実力者はもうこのあたりにはひとりもいない。
少しは、特別な存在に近づけたという自負があった。
だが——それでも、肝心の鍛えた力を発揮できる「波乱に満ちた出来事」や「運命の出会い」は、まるで訪れない。
「鍛えても、これじゃ意味がない……」
空を見上げながら、アメジアは心の中で不満を漏らした。
異世界なのに、なぜこうも退屈なのか。平穏なのか。普通なのか。せっかく手に入れた第二の人生が、このまま普通……凡夫という言葉を連想させるようなもので終わるのだけはどうしても許せなかった。
しかし、今日もアメジアが向かうのは迷宮でも怪物退治ではない。魔法を使いながら、手際よく野菜を収穫し、母の指示通りに畑仕事をこなす日々だった。
人類圏国家アルゴス聖教国。
神々の結界に守られた「人類圏」の二大国家のひとつであり、人類圏の西側を支配している国だ。
その国の辺境にアメジアが暮らしているアルヒ村はある。
辺境の小さな村での日々は、主に自給自足。畑で育てた作物を収穫し、家畜を育て、狩りをしながら日々を紡いでいく。
村の生活は異世界スローライフそのものだが、アメジアにとってはどこか物足りなかった。
村の暮らしでは、魔法の力でさえせいぜい畑に水をやったり、収穫物を運んだりといった地味な用途で終わってしまう。
平穏で安全な生活。それは神々の結界に守られた人類圏ならではの恩恵だ。
しかし、アメジアにはそれが退屈でならなかった。
かつては退屈を忘れさせてくれる存在がいた。
義姉のオリヴィアだ。
クォーターエルフの彼女は、村で唯一アメジアと実力を競い合える存在だった。
彼女と一緒に魔法の修行や模擬戦をしていた時間は、刺激的で楽しかった。
けれど、そのオリヴィアも今は聖都の学園に通うため、村を離れてしまった。
そのためここ最近、アメジアの生活はひたすら穏やかで刺激のない日々が続いている。
「はあ……どうせなら
溜息をつきながら、アメジアは空を仰ぐ。もっと派手に魔法を使ってみたい。例えば、人類の脅威を炎の嵐で焼き尽くし、魔法の威力を存分に発揮するような戦いを夢見ていた。
その相手として思い浮かべるのは、
「魔人族……英雄が倒すべき敵としてこれ以上ふさわしい相手はいないな」
魔人族は神話にも登場する、人類と激しい争いを繰り広げてきた敵対種族だ。その存在自体が戦いたいアメジアの胸を躍らせいた。
だが現実は厳しい。
魔人族と戦うには、まず人類圏の境界に近づく必要がある。
普通の人間がそこに足を踏み入れることは、許されていない。
そして、魔人族と対峙できるだけの実力があると証明するには、特別な存在——「
騎士には国から特別製の戦闘鎧が与えられ、神聖騎士にはさらに女神の加護が与えられる。
だが、その道のりは決して短くない。騎士や神聖騎士になるには、聖都の学園で四年間の厳しい訓練を受け、優秀な成績を収めなければならない。
「……まあ、一年後には僕も学園に通うんだ。その時まで我慢だ」
アメジアは派手に戦いたい衝動を飲み込み、母に頼まれた畑の水やりに戻ることにした。
退屈だとは思っているが、アメジアはこの村での暮らしを嫌っているわけではなかった。むしろ、思い出が詰まったこの場所を愛していた。
実の両親が不明で、名前が書かれた紙とともに村の入り口に捨てられていたアメジアを拾い、育て見守ってくれたのがこの村で生まれ育った今の家族と村の人々だったからだ。
特に、ハーフエルフの母レダ、人間の父キュクヌス、義姉のオリヴィアの三人家族は、アメジアにとって血は繋がっていなくともかけがえのない存在だった。
石造りの小さな我が家や、村外れの花畑でオリヴィアが笑顔で花冠を渡してくれた記憶、村の子供たちと遊んだ川や山など。それら全てがアメジアの心の中に深く刻まれている。
「……まあ、今はこうしてのんびりしてるのも悪くないか」
そう呟きながら、アメジアは今日も水を張った魔法陣を輝かせ、畑の作物に水を注いだ。
アメジアの瞳の奥には、静かに燃え上がる情熱があった。それでも、いずれ訪れる波乱の日々を待ち望みながら、この平穏な村で最後の一年を過ごそうと心に決めていた。
けれど、そんな穏やかで平穏に満ちた異世界での日々は、突如として無情にも終わりを迎えた。
「!?———!!!!!」
先程まで畑で穏やかな笑みを浮かべていた母親が、突然何かを察し、青ざめた顔で何事かを喚きアメジアを押し倒して覆い被さった瞬間、突如として村全体が巨大な影に覆われた。
その時アメジアは、まるで、世界が震えているような、全てが押しつぶされるような、そんな恐ろしい感覚に包まれた。
そして、網膜を焼くほどの光に世界が包まれて、一拍遅れて凄まじい轟音と衝撃波が襲いかかる。
突然の事態にアメジアは酷く混乱した。だが、その破壊を齎したものを、アメジアは一瞬だけ目にすることができた。
それは、巨大な星だった。
空からこの村目がけて降ってきた、莫大な質量と灼熱を纏った隕石。
それは、なんの前兆もなく空に出現し、この村へと降り注いだのだ。
ただ、そんな超常的な天災に遭いながらもアメジアは無事だった。
アメジアの母親——レダが優秀な魔法使いだったからだ。
レダはエルフという魔法に高い適正を持つ種族の血を半分引いていた。彼女が咄嗟に高位の防御魔法を発動させていたおかげで、アメジアは隕石が落下した衝撃から身を守ることができたのだ。
「無……事……アメ……」
それでも、流石に無傷というわけにはいかない。
衝撃がやんだ後、力なく覆い被さる母の腕から這い出したアメジアが目にしたのは、生命の痕跡など何処にもない、かつて村があった変わり果てた惨劇の跡地と、防ぎきれなかった衝撃と熱を一身に浴びて瀕死の重症を負った母レダの姿だった。
「母さん!?」
「逃げて……アメ……そんな……!?」
瞬間、再び、上空に蓋をするように巨大な星が出現した。
絶望は終わらなかった。
『ふん、まだ生き残りがいたか』
村の上空。そこにはいつの間にか禍々しい魔力を放つ存在が佇んでいた。
背から翼のようなものを生やし、縦に開いた爬虫類のような瞳孔と血のように赤い髪の男。
羽織のような独特な趣のある衣を身に纏うその男は、まるで虫でも見るような目で生き残りの二人——アメジアとレダの姿を見下ろすと、底冷えするような声で再び呪文を紡いで魔法を発動させた。
『星よ落ちろ』
瞬間、膨大な魔力が天に渦巻く。
そして、再び、地に落とすための灼熱と膨大な落下のエネルギーを纏う隕石が生成され、生き残った親子目がけて降り注いだ。
「忌むべき混血が煩わせやがって……凡人種もろとも一刻も早く消え失せろ」
男は人間ではなかった。
人に近しい外見をしていながら、その肉体強度は人間とは比較にならない程強靭で、纏う魔力も桁違いのもの。
それは遥か昔から存在する、この世界の人間にとっての脅威。
本来なら人類圏を守る結界内には決して出現するはずのない存在。
魔人族と呼ばれ、恐れられている人間とは似て異なる存在だった。
そして、村に隕石が落ちたのも偶然などではなく、魔法によって意図的に行われた隕石爆撃。
この世界の人類の敵による、あまりにも過剰で無慈悲な攻撃魔法だったのだ。
魔法の規模が違った。
強さの次元が違った。
そんな魔人族を相手にアメジアに出来ることは、ただ落ちて来る巨大な灼熱の隕石によって赤く染まった空を眺め、蹂躙される時を待つことだけだった。
それは、アメジアが待ち望んだ「波乱の出来事」そのもの。
この日、村人の命も、生まれ育った家も、思い出の場所も、村にあったアメジアの大切な全てのものが魔人族によって奪われた。
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