第6話 原本を求める足音
翌朝。街を歩く人々が増え始めた頃、月島ユイはかたぎり薬房のシャッターを開けるため、いつもより早めに出勤していた。昨夜、大学図書館で手に入れた「昭和期のバラ由来研究」の資料を頭の中で反芻しながら、店の掃除やレジ周りの準備を進める。
そこへ、いつものように片桐コウスケが姿を見せる。白衣はまだ着ていないが、髪をラフに結い、少し乱暴な口調で言う。
「おう、早いじゃねぇか。あんまり根を詰めすぎて倒れるなよ」
「大丈夫です、先輩。……例のバラ由来のこと、かなりヤバいかもしれません。昭和の時点で重篤な副作用が懸念されてたんです」
ユイが声を落として報告すると、コウスケは低く鼻を鳴らした。
「だろうな。そんな未知のモンが突然安全に使えるようになるわけない。……そっちの企業はどう動くかねぇ」
「シュンは会社で孤立してるみたいで……でも、もう少し粘ってみるって。もし原本データがあれば決定的になるから、隠してないか探すって」
コウスケは「ふん」とつぶやき、シャッターの外をちらりと見やる。いつもの黒スーツ男はいないが、「どうせどこかで見張ってるんだろう」とでも言いたげな表情だ。
「シュンが危ない橋を渡るなら、こっちも支度はしておけよ。……ま、できることは限られるが」
ユイは深くうなずく。彼女もまた、危険を分かっていながら真実を守る道を選んだのだ。
◇
その頃、シュンは会社の寮の狭い部屋で携帯のアラームを止め、どこか浮かない顔をしていた。
「今日こそ、何かやらないとな……」
昨日の夜、ユイから「バラ由来化合物の昭和期研究」に関する情報を伝えられ、シュンの疑念は確信に変わりつつあった。自分の会社がこの事実を隠蔽しようとしている可能性は高い。
(俺が見つけないと、誰も止められない――)
そう思って鏡に向かい、ネクタイを締めながら、シュンは自分に言い聞かせる。危険を承知で原本データの在処を突き止める。それが彼の選んだ道だった。
◇
その日、シュンはいつも通り会社のオフィスビルに出社したが、周囲の空気が重い。挨拶をしても誰もまともに返してくれず、同僚たちが露骨に避けている雰囲気を肌で感じる。
(やっぱり……もうバレてるんだな。俺が新薬の不正を探ってるってことが)
意を決して開発部門のフロアへ足を踏み入れるが、モニターの前に並んだスタッフたちは一瞬こちらを振り返っただけで、すぐに視線を逸らす。上司の机をのぞき込もうとしても、書類は全て鍵付きのキャビネットへ仕舞われている。
それでも、シュンは朝礼が終わった直後、上司の一人に声をかけた。
「すみません。こないだの新薬データ、もう一度確認したくて。前のバージョンとか……」
上司は呆れたように鼻で笑う。
「お前、まだそんなこと言ってるのか。再点検は終わったよ。問題なし。それより、今日からお前はここじゃなくて総務課の手伝いをしてくれ」
総務課――まるで急な配置転換だ。シュンは食い下がろうとしたが、上司は「異動命令が出たんだよ」と書類を突きつける。そこには「山口シュン、総務課への一時出向」と記載されている。
(やっぱりこう来たか……)
悔しさを抑えながら、シュンはその場を離れる。会社に留まっても、新薬の真相には近づけない。
だが、“社内サーバの原本データ”があるなら、このまま黙ってはいられない――。彼は心を決め、昼休憩の時間帯に社内ネットワークへのアクセスを試みることにした。
◇
一方、ユイは昼の休憩を使ってマリと通話を繋いでいた。昨日図書館で撮影した「バラ由来化合物の副作用」に関する文献を、マリが大学のPCに取り込んで解析を進めているらしい。
「やっぱり、抗炎症や血行改善の効果が大きいみたい。でも、特定の薬剤と併用すると血圧が極端に下がるとか、血液凝固に影響が出るとか、色々書かれてる」
マリが淡々と説明する中、ユイはかじかむ指先でスマホを握り締める。
「そんな重篤な副作用が判明したら、市販化なんて絶対に無理でしょ。会社はどうしてそこまで強引に? 技術的にリスクを回避できる自信があるのかな」
「それか、単に金儲けのためにリスクを過小評価してるんじゃない? 実際、こういう新薬が通れば何百億って利益になる可能性あるし」
胸が痛む。もしこんな危険な薬が市場に出回ったら、取り返しがつかない被害が出るかもしれない。ユイは「シュンに知らせなきゃ」と呟き、通話を終えた。
◇
企業内部に“原本データ”が存在する。そこには副作用の記録や治験での重大事故が隠されているかもしれない――。
シュンはそれを確かめたいが、異動させられたうえに社内の誰も味方してくれない。敵だけがじわじわと包囲網を狭めてくる。
(それでも、ユイとマリが頑張ってるんだ。俺も諦めるわけにはいかない)
昼の休憩もそこそこに、シュンは人目を忍んで開発部門フロアに戻り、端末へアクセスする術を探し始めた。
◇
オフィスの廊下には監視カメラがいくつかあり、無断で開発部門のPCを使おうものなら即座に見つかる可能性がある。それでもシュンはタイミングを見計らい、昼休憩後の空き時間に開発担当者が会議で席を離れた隙を突いた。
社内の共用PCが並ぶコーナー。ID制限がかけられているが、シュンは自分のIDとパスワードを試す。しかし、「権限がありません」と画面表示が出るだけだ。
(やっぱり……もう俺の権限じゃ開けないか)
焦るシュン。だが、そこで思い出したのは、以前仲の良かった同僚のIDだ。彼が出張で席を空けている今なら、もしかして――。
(不正アクセスにはなるけど、背に腹は代えられない。もし原本がこのサーバに残ってるなら、ここしかないんだ)
ドキドキしながら、その同僚が以前チラリと洩らしていたIDとパスワードらしきワードを入力してみる。しばらく読み込みが続き――「ログインに成功しました」という文字が画面に浮かんだ。
心臓が高鳴る。と同時に罪悪感もあるが、今は患者や社会のために真実を明かすことが最優先だ。
画面を素早く操作すると、「開発初期データ」「被験者レポート(改訂前)」「臨床試験原本」などのフォルダが並んでいる。
(あった……!)
シュンは一番怪しそうな「臨床試験原本」というフォルダを開く。そこには複数のPDFファイルやエクセルがあり、サブフォルダには「副作用報告」と銘打たれたものまである。
時間がない――シュンは慌ててUSBメモリを差し込み、フォルダごとコピーを試みる。コピーの進捗バーが遅々として進まない。背後に誰か来てないか、冷や汗がにじむ。
「あと少し、あと少しで完了……!」
やがて「コピーが完了しました」の表示が出た瞬間、シュンはUSBメモリを引き抜き、そっとPCをログアウト。急いで席を離れる。
やりきった――だが、すでに監視カメラには映っているかもしれない。社内サーバのログにも残るだろう。いつ追及されるか分からないが、それでも「原本データ」をついに手に入れた。
◇
退社時間が近づいた頃、シュンはスマホを握りしめて外へ出た。視線を感じつつも、会社の正面を離れた場所まで歩いてから、ユイに電話をかける。
「ユイ……ついに手に入れたよ。原本データ、全部コピーした」
電話越しに息を呑んだ様子のユイの声が返ってくる。
『本当? 大丈夫なの? 会社にバレたら……』
「バレるだろうね。だけど、これを持っていればもう“隠せない”はずだ。今からそっちへ行くよ」
ユイは困惑しながらも、マリに連絡を取ると言い、しばしの沈黙の後、こう告げる。
『シュン、今は私の家だと家族に心配かけるかもしれないし……かたぎり薬房の裏で、こっそり会おう。お店は閉店後なら大丈夫』
シュンは「分かった」と短く答え、胸の奥に重い決意を抱く。もはや会社に戻れない覚悟で、原本データを外部に流す。それが、患者と社会を救う唯一の道かもしれない。
(ユイ、マリ、俺――三人で正面から立ち向かうしかない)
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