第7話 秘密を交わす夜

 夕方の街に漂う匂いは、どこか人恋しさを帯びている。桜が散りきってからは、暖かくなりつつも一抹の寂しさがあるように感じられた。かたぎり薬房はすでにシャッターを下ろし、外からは電気が消えているように見える。


 「まだ仕事中だけど、先輩が『早く閉めちまえ』って言ってくれて……。シュン、気をつけて来た?」

 薬房の裏口――大きな倉庫の扉が開き、月島ユイは人影を探しながら声を落として呼びかける。すると、闇に紛れるようにシュンが姿を現した。肩にはリュックを背負い、疲れ切った表情だが、その手には小さなUSBメモリをしっかりと握っている。


 「うん。会社を出るとき、何となく視線は感じたけど……なんとか撒いたよ。これが例の“原本データ”だ」

 シュンは息をつきながらUSBメモリをかざす。ユイはその姿を見て胸が痛む。高校時代のやんちゃな彼が、いまこんなにも追い詰められながら必死に戦っているのだから。


    ◇

 ガラガラ、と小さな車の音がして、かたぎり薬房の裏道に一台のタクシーが止まった。そこから降りてきたのは橘マリ。大学から駆けつけたらしく、カーディガンを羽織ってはいるが少し息を切らしている。

 「ごめん、遅くなって。どうにかタクシー捕まえられた」

 マリは手元のショルダーバッグを抱えながら、シュンとユイを交互に見やる。

 「シュン、大丈夫? 会社、すごいことになってるんじゃないの?」

 「うん……正直、もう戻れないかも。でもこれさえあれば、不正を止められるかもしれない」


 そう言ってシュンはUSBメモリをマリに手渡す。彼女は真剣な面持ちでそれを受け取り、「中を確認したいけど、ここじゃ無理だよね」とつぶやく。

 ユイがそっと倉庫の扉を開けて、三人で奥へ入る。そこは段ボールや薬の在庫が積まれた半分物置のような空間だが、人目はほとんどない。


    ◇


かたぎり薬房の倉庫は、昔から在庫や古い調剤記録を保管してきた場所。コウスケの祖父が使っていた調剤器具や、漢方の原料などがひっそりと眠っている。


「あまり長居されちゃ困るが、好きに使え」

そう言って店の鍵を預けてくれたコウスケは、表をうろつく黒スーツの男を牽制するかのように、わざと遠回りして見回りに出かけている。


三人にとって、この倉庫が一時の安全地帯になる――はずだった。


    ◇

 倉庫の隅には古い机が置かれており、その上にユイの持参したノートPCがある。マリが電源を入れ、USBメモリを差し込むと、いくつものフォルダが表示された。

 「これ……こんなに多いの?」

 ユイが思わず声をこぼすほど、フォルダには「被験者レポート」「副作用報告」「治験プロトコル(初期)」など見慣れないタイトルが並ぶ。

 「一通りコピーしてきたから、全部見るのは時間かかるよ。とりあえず副作用関連を優先的に開こう」

 シュンは緊張した面持ちのまま画面を覗き込む。


 マリが「副作用報告フォルダ」を開くと、エクセルやPDFが大量に詰まっている。エクセルを一つ開いてみると、そこには被験者番号と症状、重症度、投薬中止などの欄があり、真っ赤なセルでハイライトされた行が散見される。

 「……やっぱり相当数、重度の副作用が出てるじゃない!」

 マリが思わず声を上げる。ユイもその数の多さに息を飲む。投薬中断に至ったケースや救急搬送が必要となった報告まであるのに、それが公表データには一切見当たらなかった。


 「こんなに……なのに、会社は“問題なし”って言い張るのかよ」

 シュンが苦々しい表情を浮かべる。彼は会社の未来を守るために就職したのに、こんな事実を知ると、もはや擁護のしようがないと思えてしまう。


    ◇

 さらに、別のPDFファイルを開くと「バラエキス高濃度群における有害事象の一覧」と題された文書が出てきた。そこには、前にマリとユイが図書館で調べた「フラボノイド系物質」が高濃度になることで血圧が急激に低下し、重篤なショック状態になったケースが記載されている。

 「これ、もし市販化されて、一般の患者さんが併用薬とか考えずに飲んだら……危険だよ」

 ユイは青ざめる。血圧を下げる薬や抗凝固薬と併用すれば、取り返しのつかない事態を招く恐れがある。

 「このデータが正しいなら、国内の薬事承認なんて絶対に通らないはずなんだけど……会社が改ざんして、こういう情報を削除してたってことだよな」


 シュンは拳を握りしめて俯く。

 (こんな大罪、誰が主導してるんだ……。会社の上層部か? あるいは出資者か?)


    ◇


夕闇が降り始めた倉庫の中で、三人はノートPCの光に照らされながら、暗い現実を突きつけられている。

ユイは「薬を通じて人を救う」という想いを胸に抱いていたし、シュンは会社の社会貢献を信じていた。マリは研究者として正義を貫こうとしている。


そのすべてを踏みにじるような不正データ。かたぎり薬房が代々大切にしてきた“薬の力”への信頼を裏切る行為――彼らの怒りと悲しみは、夜の静寂に溶けていく。


    ◇

「もう、こんなの見ちゃったら……隠すわけにはいかないよね。絶対に公にしなくちゃ」

 マリは力強く言い切る。ユイもこくりと頷き、「教授にも連絡しなきゃ。ジャーナリストの知り合いとかいないかな……」と続ける。

 シュンはUSBメモリを握りしめながら、少し迷うように目を伏せた。


「もしこれを表に出せば、俺は完全に会社を敵に回す。多分クビどころじゃ済まないかもしれない」

 その言葉に、ユイとマリは同時に「そんな……」と声をこぼす。

 「でも、これはやらなきゃいけない。だって、こんなのが世に出てしまったら、多くの患者さんが被害を受けるんだよ。見て見ぬふりなんて俺には無理だ」


 ユイの胸がざわつく。シュンが自分の人生を賭けてまで正義を貫く姿に、尊敬と不安が入り混じった感情が膨らむ。

 「私たちも、全力でサポートするよ。シュンを一人にはしない」

 思わず出た言葉だった。シュンは目を伏せたまま苦笑いし、「ありがとう」とだけつぶやく。


 その横でマリが表情を曇らせている。実は彼女はシュンに好意を寄せていたが、こんな危険な場面で想いを口にするわけにもいかない。いまはただ、一緒に戦う仲間として支えたい――けれど、その胸は切なさを帯びていた。


    ◇

 会話がひと段落した頃、倉庫の外からガチャリと鍵の音が響いた。三人がぎょっとして振り向くと、扉がわずかに開いている。

 (コウスケ先輩……? そんなはずない。閉店後だから鍵は渡されたままのはず)


 じわじわと嫌な空気が流れる。まさか、黒スーツの男が侵入してきたのか――。ユイが目でマリとシュンに合図し、ノートPCの画面を閉じようとする。その瞬間、扉がバタンと開き、男の姿が浮かび上がった。

 黒いスーツ、鋭い眼差し。何度かユイが街中で見かけた人物と同じだ。


 「そこまでだ。データを渡してもらおうか」

 低い声が倉庫に響く。男の後ろにはもう一人、体格のいい男が続いている。どうやら複数人で乗り込んできたようだ。

 マリが思わず声をあげる。「な、なんでここに――」

 男は冷たい笑みを浮かべる。「甘く見るなよ。あんたらの動きは、会社の上層部が全部把握している。データを盗んだのも分かってるんだよ、山口シュンさん?」


 シュンは歯を食いしばり、一歩引きながらUSBメモリを後ろ手に隠そうとする。ユイは咄嗟にPCを閉じて抱える。

 「ここで大人しく渡せば穏便に済む。余計なことをすれば……分かってるな」

 男の言葉が鋭く迫る。マリとユイは息を呑む。


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