第5話 図書館に潜む足音

春の陽ざしが次第に強まる昼下がり。東都薬科大学の図書館へ向かう足取りは、月島ユイと橘マリにとって、まるで“発掘作業”へ向かう冒険のようなものだった。


 「今日は土曜日だし、図書館も比較的空いてると思うよ」

 マリが軽やかに言いながら、正門から続く石畳をさっそうと歩く。ユイはその横で少し緊張気味だ。

 (本当に、ここでバラ由来の資料が見つかるのかな……? でも教授が不在のうちにやれることをやっておきたいし)


 研究棟とは離れた場所に位置する大学図書館は、数々の専門書や古文献を所蔵する巨大な施設だ。医薬・薬学分野の歴史的な研究ノートも保管されており、以前から「貴重書コーナーには面白い資料が眠っている」と噂されていた。


    ◇


土曜日の大学キャンパスは平日ほど人通りが多くはないが、研究や実験の追い込みに励む院生や教員がちらほら。ユイとマリの姿は、そんな中でも活き活きと映る。


「図書館で昔の調剤記録を探すなんて、まさに地道な調べ物だけど……なんだかワクワクする」

マリが呟くように言い、ユイも苦笑いを返す。

「新薬をめぐる不正を暴くために、こんなに古い文献を漁るなんて、大学に戻った甲斐はあるかな……」


ほんの数週間前までは、国家試験や卒業研究に追われていたのに、今は不穏な大企業の闇と向き合う日々。二人の胸に複雑な緊張感が漂っていた。


    ◇

 図書館の自動ドアを抜けると、ひんやりと冷房が効いた空気に包まれた。新しい建物なのに、静まりかえった雰囲気はまるで歴史ある美術館のようでもある。

 マリが受付に声をかけ、事前に申請してあった「貴重書コーナー」の鍵を受け取る。登録者以外は立ち入りが制限されている特別な場所だ。


 エレベーターで地下1階へ降りる。薄暗い通路を進むと、鉄製の扉がひとつ。そこには「貴重書閲覧室」のプレートと共に、「要許可」と書かれた注意書きが貼ってあった。

 「よし、開けるね」

 マリが鍵を挿し、扉を押し開けると、埃の匂いが一気に鼻をくすぐる。棚には年代物の書籍やファイルがぎっしりと詰まっており、中には金色の文字が擦り切れた学術書も見える。


 「わぁ……ほんとに宝探しみたいだね」

 ユイは思わず呟く。ここに、本当に「バラ由来化合物」に関連する歴史的資料が残されているのだろうか? 半信半疑ながらも、期待は膨らむ。


    ◇

 まず二人が目をつけたのは、薬学部の歴史関連書籍の棚。昔の研究室の業績や大会発表の記録をまとめた冊子が年代順に並んでいる。

 「ここに、何か“バラ”ってキーワードで検索したいけど……あ、図書館の端末があるね。利用できるかな」

 マリは備え付けの検索PCを操作しようとするが、なんとも古いシステムらしく、動作が遅い。しかも「この端末は目録検索が一部のみ対応」なんて表示が出る。


 「時間がかかりそうだね……紙の目録を調べたほうが早いかも」

 ユイは少し諦め気味に声を落とす。

 それでも仕方ない、と二人は分厚い手書きの目録冊子をテーブルに広げ、“バラ”“薔薇”“Rosa”などキーワードを頼りにページをめくり続けた。


 しばらくして、マリが「これ、あるかも!」と目を輝かせる。

 > 「昭和××年 薬学会発表資料『バラ属植物の成分解析と伝承調剤について』 矢部研究室所蔵」

 「矢部研究室……教授の祖父か、先代が関わってたのかも!」

 ユイが目を凝らして確認すると、そこには確かに「矢部教授の先代」という名前が記載されている。どうやら“バラ”を用いた調剤や成分解析に関する研究を昭和期に行っていたらしい。


 「これだよ、ユイ! 今の矢部教授に繋がる研究があったんだ。もしかしたら、教授の実家も医薬系だったのかもしれないね」

 「うん、これなら何か手がかりが載ってそう。早速探してみようよ」


    ◇


二人が古い棚を巡り始めた頃、静まり返った図書館の奥で小さな足音が聞こえたような気がした。しかし、ユイとマリはそれに気づかない。

「こっちかな……?」

彼女たちの耳には、わくわくするような調べ物の音しか届いていない。


だが、暗い通路の向こうでは、誰かが彼女たちを遠目に監視しているのかもしれない――。土曜日の図書館は、人も少なく、あらゆる行動が把握されやすい場所でもある。


    ◇

 ようやく目当てのファイルを見つけたのは、棚の上段、背表紙がほとんど擦り切れた薄い冊子だった。

 「これ、昭和××年の薬学会資料……間違いないね」

 ユイがそっと手に取って机に広げると、そこには昔の学会発表スライドや論文らしきものがコピーされて貼り付けられている。モノクロ写真にはバラの花弁を煎じているような実験風景が映っている。


 「すごい。ちゃんと化学式も載ってる……」

 マリが指先で追いかける。その式は今の化学式表記と多少違うが、確かにフラボノイド系の骨格らしきものが示されていた。

 「バラ由来フラボノイドの機能性……抗炎症効果や血管拡張作用の可能性……まさにシュンの会社の新薬が謳ってる効能と似てる」

 ユイは思わず息を呑む。もしこの研究が先駆けだったのなら、先代が未完成のまま残した技術を、何者かが現代に引き継いだのだろうか。


 その時、不意に入口のほうから人影が動く気配があった。二人がびくりとして振り向くと――、そこに立っていたのは矢部教授……ではなく、背の高い男性。

 「失礼、ここは関係者以外立ち入り禁止のはずですが……」

 落ち着いた口調でそう言う男性は、白衣を着ていないが、どこか研究者のような印象を与える。


 「私たちは大学院生で、教授の許可をもらっています。閲覧中ですけど……あなたは?」

 マリが警戒心を抱きながら問いかけると、男性は苦笑いを浮かべる。

 「通りかかっただけですよ。……まあ、ここの文献は貴重ですので、取り扱いには気をつけてくださいね」


 そう言い残して、男性は静かに立ち去っていった。二人は顔を見合わせる。

 「なんか怪しくない? こんな土曜日のこんな時間に、しかも貴重書コーナーに偶然通りかかるなんて……」

 ユイが小声で呟く。マリも同意するように眉をひそめる。

 「私たちがバラ由来化合物を探してるのを、ひょっとして知ってるんじゃ……」


 先ほどの足音の正体は、この男性だったのか。あるいは、彼も誰かの“監視役”なのだろうか――。不安が一層募るが、今はまず目の前の文献を確認しなくては。


    ◇

 二人が冊子の最後のページをめくると、手書きのメモが貼られていた。昭和時代の筆跡で、こう走り書きされている。

 > 「バラ由来成分は強力な薬効を示すが、併用で重篤な副作用を引き起こす恐れ有り。要再検証」


 マリとユイは思わず顔を見合わせた。

 「やっぱり……副作用のリスクが高いんだ」

 「しかも“要再検証”って書いてる。もしかしたら、このリスクが原因で昭和期の研究は中断したのかもしれない」


 これこそ、現代の新光ファーマが必死で隠そうとしている真実なのではないか――二人は確信に近い気持ちを抱く。未知のバラ由来フラボノイドには大きな効能があるかもしれないが、その分、深刻な副作用を引き起こす可能性が高い。だからこそデータを改ざんし、安全性が高いように見せかける必要があった……。


 「シュンに知らせなきゃ。これは大きな手がかりになるわ」

 ユイが急いでスマホを取り出そうとするが、マリが肩を叩く。

 「待って。ここ、監視されてるかもしれないから、外に出てから連絡したほうがいい。万が一データ消されても困るし、まずは冊子をコピー……もしくは撮影しないと」


 確かに、閲覧室での撮影やコピーには制約があるが、“メモの文言”だけでも記録しておく必要がある。二人はできる限り慎重に、スマホのカメラで該当ページを撮影し、念のためメモにも書き写した。

 (これで不正を裏付けるひとつの根拠が得られるかも……!)


 資料を戻し、速やかに閲覧室を出て行くと、さっきの男性の姿はどこにもなかった。代わりに、図書館の受付付近で黒いスーツの影がちらりと見える。

 「……やっぱり来てる」

 ユイは小さく息を呑む。マリは「あれ、私たちが帰るのを待ってるのかな……」と表情を強張らせる。


 先週あたりから何度も現れてはユイたちを見張る黒スーツの男が、こんな大学の図書館にまで現れるなんて。もう偶然では済まされない。

 「マリ、出口が一つしかないから、あいつが待ち伏せしてるかも。どうする?」

 「……仕方ないよね。逃げ回るより、ここは堂々と出よう。証拠は確保したんだし」


 二人は意を決して図書館の扉をくぐる。すると、男は一瞬こちらを見つめ、わざとらしく携帯で誰かに電話をかけるような動作をしてから、逆方向へ歩き出した。

 (追ってこない……? いや、何か企んでるのかも)


 嫌な汗が背中を伝う。だが、バラ由来化合物の重大な副作用リスクを示す過去の記録――それこそが自分たちの大きな武器になる。

 (次はシュンと情報共有して、どう動くか考えないと)


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