第4話 バラの香りが導くもの

 夜の闇が静かに降りた頃、月島ユイは自室の机に向かい、ノートパソコンでマリとオンライン通話を繋いでいた。日中のかたぎり薬房での仕事を終え、ようやくデータ解析に集中できる時間だ。

 カメラ越しに映るマリの顔はやや疲れ気味だが、好奇心に燃えた目が印象的だった。


「ねえユイ、ちょっと面白いものを見つけたんだけど……これ見える?」

 マリが画面共有で表示したのは、古い研究報告書のようなPDFファイルだった。英語で書かれている部分も多いが、ところどころに「Rosa(バラ)由来――」という単語が見える。


「バラ由来化合物……? なんだろう、アロマ的な研究?」

 ユイは眉をひそめる。薬学分野でもバラの香りや成分が活かされることはあるが、まさかこんな不正疑惑の新薬に関わるとは想像しにくい。

「どうやら、この報告書は昔ある研究チームが“バラのエキス”に薬効を見出した事例らしいの。けど、臨床試験の途中で頓挫したんだって」

 マリはそう言ってページをスクロールしながら続ける。

「興味深いのは、この報告書にある化学構造式と、シュンの会社の新薬データに記載された一部の指標が酷似してるのよ。つまり、バラ由来の物質を主成分にした新薬かも」


 「……もしこれが本当なら、新薬としては目新しい可能性があるね。バラの香りが持つ鎮静作用とかリラクゼーション効果だけじゃなく、何か特別な薬理作用を狙ってるのかも」

 ユイは思考を巡らせる。バラというとアロマテラピーや化粧品のイメージが強いが、特定の成分に抗炎症作用や循環器への影響があるのなら、製薬企業が大きく投資するのも不思議ではない。


「でも、これがもし有効成分でも、ちゃんとした治験データが揃わなきゃ承認は下りないよね。それを改ざんしようとしてるとすれば……」

 マリがため息混じりに呟く。ユイもうなずいた。

「データに不備があれば、本来は承認不可。だけど巨大な利権が絡んでるなら、強引に進めようとする人たちがいてもおかしくない。しかもバラ由来成分は注目を浴びそうだし……」


 二人の頭には、かたぎり薬房に飾られている一輪のバラの姿がふと重なった。あの香りが、人をリラックスさせる効果だけでなく、未知の治療効果を秘めているとしたら――。


    ◇


かたぎり薬房の先代、コウスケの祖父は古くから漢方やハーブの知識を取り入れ、独自の調剤を行っていたという。

「うちの爺さんは、バラの花びらを煎じて薬に混ぜてたらしい。でも効能がどうとかいうより、“気持ちが和むから”って理由だったみたいだな」


そう口にするコウスケは、かつての祖父のやり方を懐かしむような眼差しをしていた。バラが本当に薬理効果を持つのか、それともただのプラセボ効果なのか――。

しかし、“薬を通じて心を癒す”という姿勢は、かたぎり薬房の精神として脈々と受け継がれているのだ。


    ◇

 翌日、ユイが再び薬局での業務をこなしていると、昼過ぎになってシュンから短いメッセージが届く。


「会社で旧文書を探そうとしたけど、データ室へのアクセスが禁止された。上司も何か言いたげだけど、口を閉ざしてる。正直ヤバいかもしれない」


 ヤバい――その言葉にユイは胸がざわつく。もし新光ファーマが意図的に情報を遮断しているなら、不正が表に出る前に証拠を隠滅しようとしているのかもしれない。

 「先輩、ちょっと休憩もらっていいですか? シュンと連絡取ってきます」

 コウスケは軽くうなずく。「わかった。外をうろつく黒スーツには注意しろよ」と一言付け加えた。


 薬局の裏の細い通路まで足を進め、ユイはスマホを握りしめる。すぐにシュンへ電話をかけると、相手は小声で出た。

 『もしもし、ユイ……悪い、仕事中に。俺、もう会社で孤立してるかもしれない』

 「どういうこと? 誰かに嫌がらせとか受けてるの?」

 『直接じゃないけど、端末のログイン権限が突然制限されて、上司からも“余計なことを調べるな”って遠回しに言われた。下手すりゃクビかもしれない』


 ユイは眉を寄せる。そこまで露骨に圧力をかけるなら、やはり会社には何か不都合な真実があるのだろう。

 「シュン、あんまり無理しないで……最悪の場合は辞めることになっても、あなた自身が無事でいてくれなきゃ困るよ」

 『……分かった。でも、俺はやっぱり見過ごせないんだ。バラ由来の化合物か何か知らないけど、不正に使われていいはずがない。データがどう改ざんされてるのか、もっと知りたい』


 シュンの声には焦燥が滲みつつも、強い意志が感じられた。ユイは胸の奥に熱いものがこみ上げる。彼は高校時代から正義感はあったが、ここまで必死になるとは――。


 「大丈夫、私たちも大学でデータ検証を進めてる。バラ由来の成分に関する文献も見つかったし。もし何か証拠を握れたら、すぐに知らせるね」

 『ありがとう。……ユイも気をつけろよ。俺、何となく会社の人間がそっちを探ってる気がするんだ』

 そう言って通話が終わると、ユイは一瞬背中に冷たいものを感じ、思わず振り返る。しかし、その場に人影はない。


    ◇

 夕方、薬局が閉店する前に、マリからSOSの連絡が入った。

 「ユイ、急だけど今日大学に来られない? どうしても見せたいものがあるの!」


 ユイは心配そうな顔でコウスケに相談すると、彼は二つ返事で「行ってこい」と送り出してくれた。

 「さっさと行ってきな。店は俺が片付ける。……お前らがやってること、たぶん無駄じゃねえだろうからな」


 ユイは感謝の気持ちでいっぱいになりながら、さっそく大学行きの電車に乗る。移動中、外の暗がりを見つめると、ふと黒スーツの男の姿が脳裏をよぎる。しかし、今は立ち止まっていられない――マリが「見せたい」と言うからには、何か大きな手がかりが掴めたに違いない。


    ◇


東都薬科大学の研究棟は、夜になるとひっそりと静まり返る。昼間の喧騒は嘘のように消え、限られた院生や教職員が残って作業を続けている。

「研究者ってのは、時間を問わないからね……」

マリがよく口にする言葉だが、この夜も例外ではない。


薄暗い廊下を足早に歩くユイの胸には、シュンの必死の声と、新薬をめぐる不正疑惑、そして“バラ由来化合物”というキーワードが入り混じっている。いったい何が隠されているのか。もう引き返せない――そんな予感がする夜だった。


    ◇

 研究棟に着くと、マリが入口で待ち構えていた。白衣の上にカーディガンを羽織り、少し興奮気味に駆け寄る。

 「ユイ、こっちこっち!」


 二人は矢部教授の研究室へ向かうが、教授の姿はない。どうやら出張で不在らしい。その代わり、マリがパソコン画面に映し出すのは、先ほどの“バラ由来”の古文書や海外文献と、シュンの会社が開発している新薬のモノクロの合成経路だ。


 「見て、この部分。化合物の骨格がバラ由来物質に近いだけじゃなく、試験データには“特定の薔薇品種”の抽出エキスを使った痕跡があるっぽいの」

 マリが指差す先には、英語で品種名らしき記載がある。まるで“○○ Rose”と書かれたラベルが薄く残ったまま上書きされたようだ。

 「なるほど……つまり、もともとバラから抽出した希少成分を合成して新薬に応用したかったわけだ。でもその治験で、副作用や問題が相次いでいた可能性もある……」

 ユイは唸るように言う。もし本当にそんな成分を安易に使えば、安全性の検証は当然厳しくなるはずだ。そこで改ざんをしてでも効果を誇張し、副作用を隠蔽しようとした――筋は通る。


 「しかも、この文献の最後のページには“高コスト・低収率のため研究断念”と書かれてるんだよ。昔の研究者が抜き取ったまとめらしくて……」

 マリはページをスクロールする。確かに“High cost and low yield”と見える。「コストが高い割に抽出量が少ないため、実用化が難しい」との注釈だ。

 「そんなものを製薬会社が急いで市販化しようとしてるなら、よほど大きなリターンがあるのか、もしくは既に巨額の投資が入って引き返せない状態か……」

 ユイは思わず背筋を伸ばす。まさに巨大な利権が絡んでいると考えるべきだ。


    ◇

「そういえば、かたぎり薬房でもバラの花が飾られてるんだよね。昔からずっと飾ってるわけじゃないんだけど、時々先輩が買ってきて置くことがあるの。何か関係あるのかな……」

 ユイが何気なく口にすると、マリは興味深そうに首を傾げる。

「え? かたぎり薬房って和風なイメージだったから、バラって意外。薬効がどうとか言ってた?」

「先輩は『うちの爺さんが好きだったから』としか言わないんだけど、実際は昔からハーブや生薬と組み合わせる文化があったらしくて。バラもその一環かも」


 二人は思わず顔を見合わせる。もしバラが薬局の歴史と関わっているなら、さらに手がかりが得られるかもしれない。

 「大学の図書館にも古い調剤記録とかハーブ研究の資料があるから、今度探してみようか?」

 マリの提案にユイは大きくうなずく。

「そうだね。教授が不在だけど、勝手に閲覧して大丈夫かな……でも、今はタイミングを逃すわけにいかないし、やってみる価値はあるわ」


 そしてもう一つ、頭を離れない不安がある。バラ由来の不正を追おうとする彼女たちが、企業から監視されている可能性は高い。すでにシュンは孤立し、ユイも黒スーツの男を何度か目撃している。

 「気をつけながら動くしかないね……でも、私たちは絶対に諦めないんだから」

 マリがきっぱりと口にし、ユイはその言葉に勇気をもらう。


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