第3話 かたぎり薬房に差す影

翌朝、桜の花びらがだいぶ散り始めた街を、月島ユイは小走りで駆け抜けていた。かたぎり薬房には朝イチの開店準備があるうえ、昨日の大学での解析結果を頭の中で整理したい。睡眠は短かったが、不思議と体は軽い。


 「おはようございます……!」


 息を弾ませながらガラス扉を開けると、すでに店内には片桐コウスケの姿。白衣の袖をまくった彼が棚卸し用のバーコードリーダーを片手に、先に品出しを進めていた。


 「おう、遅かったな。あと三十分で朝の患者が来るぞ」  「すみません、すぐ準備します!」


 ユイは急いで白衣に着替え、薬の在庫チェックに取りかかる。頭の片隅には新薬データのことがチラついているが、いまは患者対応が最優先だ。コウスケの言うように、この薬局が地元で頼りにされている以上、朝から来局する患者さんも少なくない。


    ◇

 ドアベルがチリンと鳴り、ユイが受付カウンターで挨拶をすると、常連と思しき年配の女性が処方箋を差し出してきた。  「いつもすまないねぇ。降圧剤とコレステロールの薬、またお願いできる?」  「はい、すぐにお出ししますね」


 さっそく調剤室へ向かい、処方箋を見ながら薬をピッキング。大学で習った薬理作用や副作用に関する知識を頭の中で総動員し、相互作用や重複投与がないか確認する。緊張感はあるが、この仕事こそ薬剤師の本懐だとユイは思う。


 「あの婆さん、今月は血圧が安定してるようだな」  背後からコウスケがモニターを覗き込みつつ言う。  「そうですね。前回より血圧手帳も良い値でした。このまま続けてもらえれば……」  「なら軽めの副作用注意だけ伝えとけ。あとは特に問題なさそうだ」


 ふと、ユイは患者さんを安心させる薬剤師としての姿勢と、昨日大学で感じた「薬が持つ危うさ」のギャップに思いを馳せる。もし製薬企業の新薬が改ざんされたデータで承認され、こうした患者さんに投与される日が来たら……そんな事態は絶対に避けたい。


 (私は、薬を正しく使ってもらうためにここにいる。だからこそ、新薬の疑惑は見逃せない)


 ユイはあらためて心を奮い立たせながら、処方薬を袋にまとめて患者さんへ渡しに行った。


    ◇

 午前中の忙しさがようやく落ち着いた頃、ユイはコウスケから「昼休憩に行ってこい」と声をかけられた。店内の片隅で簡単に昼食をとりながら、スマホを確認すると、マリからのメッセージが届いている。


「昨日の解析データ、少し進展があったかも! 後でビデオ通話できる?」


 どうやら大学でマリが追加の検証を進めていたらしい。ユイは「夕方になったらOK」と返事し、スマホをしまう。そのとき、店の外に視線を移すと、どこかで見かけたような黒いスーツの男が商店街の通りをじっと眺めているのが見えた。


 (……気のせい?)


 一瞬、目が合った気がしたが、男はすぐに背を向けて歩き去っていった。胸の奥にざわつくような感覚が残る。おそらく勘違いだと思いたいが、昨日から不穏な出来事が重なっているだけに、嫌な胸騒ぎを覚えずにはいられない。


    ◇


大学の研究室でマリは、一人黙々と統計ソフトを立ち上げ、シュンの会社が提供する新薬データの数値を何度も検証していた。

「なにこれ……あり得ないバイアスだよ」

たとえば、被験者の年齢層が若い人に偏っているうえ、副作用を示した患者の記録が消されているようにすら見える。


マリは思わず悪態をつきたくなる。誰が何の目的でこんなことを? しかも新薬開発となれば、社内の何人ものスタッフが関わるはずだ。


「ユイが薬局で頑張ってる間に、私もこのデータをもっと突き止める。絶対、おかしい……」


カタカタとキーボードを打つマリの耳元に、ふと矢部教授の声が蘇る。


「組織が大きければ大きいほど、不正が見つかったときのインパクトも大きい。気をつけるんだぞ」


マリは研究者としての正義感と、少しだけ芽生えた恐怖を同時に感じながら、さらなる深みへと足を踏み込もうとしていた。


    ◇

 昼過ぎ、ユイが店内の整理をしていると、スマホにシュンからの着信があった。無意識に胸がドキリとする。仕事中ではあるが、コウスケが「出てこい」と促してくれたので、ユイは薬局の奥へ回る。


 「もしもし、シュン? 大丈夫? 昼休み?」  『ああ、ちょっと外に出てきた。……実は、社内で妙な雰囲気なんだ。上司たちが“データ再点検”とか言い出してさ、俺にも情報を出さないようにしてるっぽい』  「やっぱり何か隠してるのかな……教授にも見せたけど、やはり改ざんの可能性は高いって」  『そうか。やっぱりそうなんだな。……どうしよう、俺、このままだと会社で孤立しそうで……』


 シュンの声は思いのほか弱々しく聞こえる。あの自由奔放だった彼が、こんなに追い詰められるなんて――想像もしていなかった。

 「無理しないで。マリが大学でいろいろ解析を進めてるから、確証を掴めたら私たちも動けると思う。シュンは会社の様子を見て、危ないと感じたらいつでも連絡して」

 『分かった。……ユイも気をつけてな。あっちも本気で情報を封鎖してるみたいだから、下手なことすると狙われるかもしれないし』


 胸がチクリと痛む。この程度で“狙われる”などあり得るのかと考えてしまうが、昨日の黒スーツの男のイメージが頭をよぎる。もしかして、既に何者かが監視している……?

 そんな不安を抱えながら、ユイは「大丈夫、ありがとう」と伝えて通話を切った。


    ◇

 奥から戻ってくると、コウスケがカウンターの向こうで腕を組んで待っていた。

 「シュンからか? 会社で面倒なことになってるなら、早めに手を打ったほうがいいな」

 「ええ……でも、私たちもまだ“可能性”の段階で、確証を得てるわけじゃなくて……」

 コウスケはふっと鼻を鳴らす。

 「確証なんて、まともにやれば時間がかかるだろう。相手が先に手を回して“データ廃棄”なんてされたら証拠も消える。もし本当に不正があるなら、一刻を争うかもしれねえぞ」


 彼の言葉にユイは痛いほど同意する。だが、そう簡単に大事にはできない。確証を得られずに告発すれば、こちらが逆に名誉毀損や妨害行為で訴えられる危険もある。

 「薬が人を救うためのものじゃなく、金儲けや権力争いに利用されるなんざ、まっぴらだがな……」

 コウスケの言葉は低く重い。ユイは、そんな彼を頼もしくも思いながら、やはりどこかに潜む怖さを意識せざるを得なかった。


    ◇


かたぎり薬房は、昼下がりになると少し静かになる。棚の薬品リストをチェックしながら、ユイは先ほどのシュンの声を思い出す。

「孤立しそうで……」


もし本当に会社ぐるみの不正があるとしたら、シュンは内部告発者として一番危険な立場になる。何かあったらどうする? 自分は彼を助けられるのだろうか……。


ユイの心はざわめき続けていた。患者を守りたい、シュンを助けたい、その思いは同じでも、いざ“巨大な組織の闇”と対峙するとなると、自分の無力さを痛感させられる。


    ◇

 夕方、ユイは仕事を終えて店のシャッターを半分下ろしながら、「今日はバタバタしたな」と息をつく。外に出て看板を片づけようとしたとき、再びあの黒スーツの男が視界に入った。


 (また……?)


 男は商店街の一角に佇み、こちらをちらりと見ている気がする。ユイと目が合うや否や、足早に裏路地へ消えていった。まるで“監視”していると言わんばかりの動きに、ユイの背筋はひやりと冷える。


 「どうした? 顔色悪いぞ」  コウスケがシャッターの内側から声をかける。ユイは迷った末、黒スーツの男のことを打ち明けた。  「多分、見張られてる……のかもしれません。さっきから何度か姿を見たんです」


 コウスケの目つきが鋭くなる。  「へぇ……なるほどな。やっぱり色々と動き出してるってわけか。お前、家まではちゃんと気をつけろよ。俺も少し見回ってくるから」  「すみません、先輩……」


 ユイは不安に駆られながらも、これ以上店に迷惑をかけられないと感じて、深く頭を下げる。コウスケは「バカ、頭下げんな」と照れくさそうに言ったあと、「今日はもう上がれ」と促してくれた。


 (ここまで来たら、もう後には引けない……)


 ユイは心の中でそうつぶやきながら、自宅へと急いだ。夜になればマリとのビデオ通話でさらに新薬データを解析する予定だ。時には家族にも心配をかけずにこの問題を追い続けるしかない。自分にできることをやる――それが薬剤師としての使命だと思いたい。


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