第2話 大学研究室の影

翌日、ユイはいつもより早起きし、かたぎり薬房の朝の仕事を手伝ったあと、大学へ向かう電車に飛び乗った。

 シュンから見せられた新薬データを分析するには、自宅のPCよりも大学の研究環境を使うほうがはるかに効率がいい。何より、同じ薬学部の友人であり、現在大学院で研究を続けている橘(たちばな)マリにも相談したかった。


 (本当に、不正なんてあるのかな……)


 不安と好奇心、そしてささやかな緊張感が入り混じり、ユイの胸はざわつく。電車の窓越しに流れる街並みは少しずつビルが増えていき、やがて大学のある郊外へと変化していった。


    ◇


前日、かたぎり薬房でシュンと再会したとき、彼の真剣な表情がユイの心に深く刻まれていた。

「会社に疑惑があるなら、僕は止めたい」

かつての無鉄砲な少年が、いつの間にか大人の責任感を帯びている。ユイはその横顔に、かすかな戸惑いと尊敬を覚えた。


そして、見せられた臨床データ。数字の不自然さは、どう考えても偶然とは思えない。しかし企業の新薬開発には膨大な金と権力が絡むもの――もし本当に不正があるとしたら、正面から立ち向かうのは相当な危険を伴うかもしれない。


それでも、薬剤師になった以上、「薬」が人を傷つける道具になるなんて耐えられない。ユイはそんな思いを抱きながら、大学のキャンパスへ足を運ぶのだった。


    ◇

 電車を降り、バスで少し揺られた先に見えてきたのは“東都薬科大学”の広大な敷地。久しぶりに訪れる母校は、春の陽ざしの中、ゆるやかな風が吹き抜けていた。

 在学中は試験に追われ、研究に追われ、夜遅くまで実験室にこもる日々も多かったが、今となってはなんだか懐かしい。四月のキャンパスは、新入生らしき若い顔ぶれで賑わっているように見える。


 「はぁ……戻ってきちゃったなぁ」


 声にならない声でつぶやきながら、ユイは研究棟へ足を進める。そこで待っているのは、この春から大学院の修士課程に進んだ友人・橘マリだ。


    ◇

 研究棟の廊下を進むと、奥からにぎやかな声が聞こえる。学部生や院生が何人も行き来しているなか、ユイの目に鮮やかなオレンジ色のカーディガンが飛び込んだ。

 「ユイ! 久しぶりじゃん」

 ぱっちりとした目で屈託なく笑うのは橘マリ。大学の友人であり、ユイと同じ研究室に所属していた仲だ。今は矢部教授のもとで修士論文の研究をしている。


 「マリ! 元気にしてた?」

 ユイは駆け寄って軽く抱き合う。大学を卒業してから数週間しか経っていないはずだが、まるで昔のように感じてしまう。

 「私はめちゃくちゃ元気。研究忙しいけどね。ユイこそ、薬剤師として働き始めたんでしょ? どう?」

 「うん、地元の薬局で研修中。実務実習よりも現場感が強くて、大変だけど面白いよ」


 マリは「へぇ~」と感心しながら、ユイの白衣姿を想像するかのように目を輝かせる。

 「それで今日は何しに来たの? まさか早々に研究が恋しくなったとか?」

 「いや、実は……」


 ユイは声を潜め、シュンから見せられた新薬データの話を手短に説明した。治験データがおかしい、改ざんの可能性があるかもしれない――。その言葉にマリは目を丸くした。

 「嘘でしょ? 会社が不正だなんて……でも、もし本当なら大問題じゃん。うちの教授も臨床試験の監査とかやってるし、聞いてみようよ!」


 さすが好奇心旺盛なマリは、少しも怯む様子がない。ユイは心強さを感じながら頷く。

 「うん、教授にも相談したい。でも、その前に私たちの手でデータを大まかに解析してみない? あんまり大騒ぎして何もなかったら恥ずかしいし……」

 「OK! じゃあさっそく実験室でPC使おう。私の研究デスク、勝手に使っていいから」


 こうして二人は足早に研究室へ向かった。学内の設備を使えば、統計ソフトや文献検索も手軽にできる。短時間である程度の分析が進むはずだ。


    ◇

 矢部研究室は、大学院生が多数在籍する活気ある場所だが、この日はちょうど昼過ぎで人の出入りが少ない。ユイとマリはすぐにパソコンを占領し、シュンのタブレットから移したデータを読み込んだ。

 画面に表示されたグラフや被験者データの一覧をマリが操作し、ユイがエクセルと突き合わせるようにチェックする。


 「うわ、これ……やっぱり怪しいね」

 マリが指を差すのは、年齢分布の表。普通は治験被験者の男女比や年齢層がある程度バラけるよう設計するはずなのに、なぜか若年層が極端に多い。しかも、臨床結果の有意差が急に跳ね上がっている部分がある。

 「これ、もしデータ操作してるなら、プラセボ群とか対照群の数値を削ってる可能性もありそう。ちょっと時系列を並べてみるよ」

 ユイはエクセルで日付順にデータを並び替え、数値の変動を確認する。

 「……あれ? 急に被験者数が増えた時期があるのに、効果の差が不自然に平坦なんだね」

 「うん、これ普通ならあり得ない。絶対何かの操作があったんじゃ……」


 マリと顔を見合わせる。ここまで露骨だと、単なる集計ミスとも思えない。


 「私、ちょっと文献をチェックして、こういう傾向があればあり得るのか調べるね。ユイはこっちのグラフをもう少し詳しく解析してみて」

 「了解。あと、教授のところにも行かないと……時間があれば相談したいし」


 焦る気持ちが高まる一方、二人とも同時にある種の興奮を感じていた。もしこれが本当に改ざんだとしたら、それを突き止めることは世の中のためになる――そう確信させるだけの“怪しさ”が、目の前に転がっていたのだ。


    ◇


ユイたちが在学中、矢部教授は「臨床試験データの厳正さは医療の根幹だ」と口を酸っぱくして説いていた。


「データが偽りだった場合、それを信じる医師や患者が犠牲になる。薬学は人の命を預かる学問だ」


卒業研究のとき、ユイが実験データの整理に苦しんでいたときも、教授は常に「統計や数値はウソをつかないが、人間はウソをつくことがある。その可能性を忘れるな」と語っていた。


だからこそユイは、データに“ウソ”の香りが混じっているなら絶対見逃したくない。薬剤師として、そしてかつて矢部教授に学んだ学生として、その責任を感じていた。


    ◇

 数十分ほど初期解析を進めた後、マリが「教授、今研究室にいるはずだよ」と言い、二人は奥の部屋へ向かった。そこは矢部教授の私室兼指導スペースで、天井まで本が積まれている。

 ノックをすると、渋い声が返ってくる。

 「入れ」


 扉を開けると、そこには初老の男性――矢部教授が机に向かって論文らしきものを読んでいた。切れ長の目がユイを捉え、かすかな笑みが浮かぶ。

 「おや、月島か。卒業しても大学に顔を出すとは熱心だな。……ふむ、なんだか深刻そうな顔だな」

 「教授、お久しぶりです。実はちょっと見てほしいデータがあって……」


 ユイはノートパソコンを開き、先ほどの臨床試験の怪しい箇所を示す。教授は目を細めながら画面を見つめ、しばらく無言が続く。マリも横からフォローを入れつつ、疑念のポイントを説明した。

 「ここ、プラセボと比較したときのP値が妙に安定しすぎなんです。普通はバラつきがあって然るべきなのに……」

 「年齢分布や重症度のバラけ方も不自然ですよね。サンプル数が急に増えたはずなのに、有意差が変わらないってどういうことなんでしょう」


 教授は黙って聞いていたが、やがて苦い表情で口を開く。

 「もしこれが本当に治験データなら、改ざんの可能性は否定できん。もしくは“都合のいい被験者”ばかり選んだか……いや、それでも説明がつかない部分が多い」

 ユイは思わず息を飲む。大学時代、矢部教授は臨床研究の厳正さを誰よりも重視していた。その教授がここまで言い切るということは、ほぼ黒だということではないか。


 「教授、どうしたらいいでしょう? 私たち、これをどう扱えば……」

 マリが探るように尋ねると、教授は腕組みしながら深いため息をつく。

 「今の段階で公にすると、下手すれば逆に告発者が潰される可能性がある。製薬企業の不正は多額の利権が絡むからな。誰が敵か味方か分からんぞ」

 ユイは胸がざわつく。そんな危険に自分たちが足を踏み入れようとしているのだ。

 「月島、おまえの判断次第だが……。一度、じっくりデータを解析して、改ざんの確証を得るべきだ。そうでなければ、ただの“疑惑”で終わってしまうからな」

 ユイは教授の瞳をしっかりと見つめ、うなずく。

 「はい……分かりました。私、マリと一緒にさらに調べてみます」


 教授は小さく頷きつつも、「気をつけろ」と一言だけ付け足した。その声には長年研究に携わってきた者の重みが感じられ、ユイの心をいっそう引き締めた。


    ◇

 大学での解析を終えた頃には、すっかり日が沈みかけていた。マリと別れを告げたあと、ユイはかたぎり薬房へ戻る電車に揺られる。

 揺れる車内でスマホを見ると、シュンからのメッセージが届いていた。


「会社でさらにデータを探してみた。やっぱり何か隠してる気がする。ありがとう、ユイ。引き続きよろしく」


 たったそれだけの短い文面。それでも、彼がこの問題をどれほど真剣に考えているかが伝わってくる。ユイは複雑な胸の痛みを感じながら、返事を打とうとするが、言葉がなかなかまとまらない。

 結局「こっちも本格的に調べ始めた。気をつけてね」とだけ返信して、スマホを閉じる。


 電車の窓には、暗い景色が流れていく。自分は今、果たしてどんな道を歩き始めたのだろう――不安半分、使命感半分。それでも、薬剤師として薬の正しさを守りたい気持ちは確かに強まっていた。

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