宵闇に舞う白衣とバラの秘薬

モッピー

第1話 白衣の舞う春風

桜が風に乗り、まるで淡い吹雪のように舞い散る四月初旬。

 月島ユイは、久々に踏みしめる石畳をゆっくり歩きながら、胸の中にわずかな高揚感とくすぶるような不安を同時に抱いていた。大学を卒業し、薬剤師としての免許を取得してからまだ日が浅い。にもかかわらず、新しい一歩を踏み出すために――いや、本来は“馴染みのある場所”へ戻ってくるために――ここへ帰ってきたのだ。


 どこか懐かしい商店街。狭いアーケードの上には桜並木が続いていて、この季節は淡いピンク色に包まれる。通りを進むと、昔から知る店々の看板が目に入り、小さな頃の自分が走り回っていた記憶が頭をよぎる。


 「ただいま、か……」


 ユイはふと口にしてみた。けれど声が小さすぎて、桜の舞う風音に紛れて消えてしまった。

 程なくして、見慣れた木製看板が視界に入る。そこには「かたぎり薬房」と、少し剥げかかった文字が浮かんでいた。店先には春の花々とともに、一輪だけバラが飾られている。


 「……懐かしい」


 幼い頃から、風邪をひくたびに母親に連れられて来た場所。薬の匂いと、どこか温かい空気。新しい道に進んだはずなのに、結局はここへ戻ってきた。


 ユイは少しの緊張を感じながら、ガラス扉をそっと開ける。ベルの軽い音が鳴り、中からあたたかな照明が漏れてきた。調剤カウンターの奥には見覚えのある姿――片桐コウスケが、分厚い薬の在庫台帳を開きながら待ち受けるように立っている。


 「よぉ、おかえり」

 低めの声でそう言ったのは、やはりコウスケだった。中学・高校の頃は“兄ちゃん”のように慕っていたが、今では立派に老舗薬局の三代目として店を任されている。ユイは、彼の少し乱れた黒髪と鋭い眼差しが懐かしく、そして少し怖いとすら感じる。


 「ご無沙汰してます。大学を卒業して、国家試験も受かりました。しばらく、ここの薬局で研修させていただきます」

 ユイは頭を下げた。

 「はは、そんなに畏まんなくていい。学生の頃、実務実習に来ただろう? お前の飲み込みの速さは知ってる。とはいえ、現場は大学の勉強だけじゃ足りねぇからな。しっかり鍛えてやる」


 コウスケのぶっきらぼうな言葉には、不思議と優しさが混じっている。ちらりと見た店内は相変わらずだ。カウンター越しには、調剤に使う大きな棚があり、日本薬局方の分厚い本が机に積まれている。幼い頃はその専門的な雰囲気に圧倒されていたけれど、今のユイはそこに身を置ける喜びを噛みしめていた。


 「さっそくだが、あとで患者さんが立て込むからな。お前の手並みも見たいし、準備しとけ」

 「はい、よろしくお願いします!」


 ユイは胸を張り、表情を引き締める。薬剤師としての初日、いよいよ始まるのだ。


    ◇


子どもの頃、熱を出して寝込んだユイを母親が連れてきたのは、いつも「かたぎり薬房」だった。カウンター越しに見えた白衣の背中、優しい笑顔の薬剤師さん、甘いシロップの薬の匂い……。

「飲めるかな? 苦くないからね」

そう言って差し出される薬を、幼いユイは涙目で飲んでいた。うっすら舌に残る苦味すら、安心感をもたらしてくれる味だった。


「将来は薬剤師になりたい」

その夢を初めて抱いたのはあの日。まだ漠然としていたが、“薬”というものが人の体と心を支える力を持っていることに興味を持ったのだ。

大学では薬学を専攻し、国家試験にも合格した。けれど、本当に“現場”で通用する力があるのだろうか。まだ不安でいっぱいだ。


桜舞う春、ユイはそんな気持ちを胸に、古巣とも言える薬局の扉を開いたのだった。


    ◇

 午後、かたぎり薬房には地元のクリニックから処方箋を持った患者が数人訪れた。ユイはコウスケの指示を受けつつ、薬の鑑査やピッキング、服薬指導の基本を手際よくこなしていく。国家試験で学んだ知識を思い出しながら、実務に落とし込むのは新鮮であり、やりがいを感じられる瞬間だった。


 「どうやら動きは悪くねぇな」

 調剤室の奥でコウスケがぼそりと呟く。褒め言葉とも叱咤ともつかないその声に、ユイは少し安堵を覚えた。


 ひとまず忙しい時間帯を終え、ユイがホッと息をつこうとした瞬間、ガラス扉が再び開く音がする。

 「すみません、ここで薬、受け取れますか?」


 聞き覚えのある声――。振り返ると、そこに立っていたのは高校時代のクラスメイト、山口シュンだった。

 「シュン……? 久しぶり。どうしたの?」

 驚きと懐かしさが入り混じり、ユイはまじまじと彼の顔を見つめる。茶髪をきちんとまとめ、落ち着いたスーツ姿に身を包んだ彼は、高校時代のやんちゃなイメージとはだいぶ違う。

 「いや、偶然ここが空いてるって聞いてね。あと、ちょっとユイにも会いたくて……」


 シュンは恥ずかしそうに笑い、ユイの白衣姿をちらりと見やる。ユイもなんだか気恥ずかしくて、言葉が出てこない。そんな二人の様子を見かねたのか、コウスケがカウンターの向こうから声をかける。

 「おい、勝手にいちゃついてるんじゃねぇよ。患者さんか? それとも私用か?」

 「私用……じゃないかな。俺、最近医療系のベンチャー企業に就職したんだ。実は、ちょっと相談があってさ……」


 シュンの表情が曇る。ユイは首をかしげながら、彼が差し出すタブレットを受け取る。そこには「新薬開発・臨床データ」と書かれたフォルダが並んでいた。

 「最近、うちの会社がある新薬の臨床研究を進めてるんだけど、統計がどうも怪しいんだ。被験者数や効果の有意差が変に片寄ってて……。俺、専門が薬学ってわけじゃないから、間違ってるのかもしれないと思ったけど、やっぱり引っかかるんだよね」


 ユイはタブレットのデータをざっと見る。いくつかのグラフや表があるが、確かに被験者数や平均値の整合性がおかしく見える。

 「これ、改ざん……されてる可能性があるかもしれない。私もまだ断言できないけど……」


 唇を噛むユイ。もしこれが本当に新薬開発段階でのデータ偽装だとしたら、大問題だ。治験データが虚偽であれば、副作用やリスクを見過ごしたまま新薬を世に出すかもしれない。そんなことがあれば、患者さんの命を脅かす。


 「やっぱり……。俺としては、会社が不正なんかやってほしくないけど、もしやってるなら止めなきゃいけない。それで、ユイに力を貸してほしいんだ」

 シュンの声は強い決意を含んでいた。


 コウスケは横から口を挟む。

 「なるほどな。こういう話に首を突っ込むなら、それなりに覚悟が要るぞ。下手すりゃ会社に睨まれて、お前自身がやばい立場になるかもしれねぇ」

 「分かってる。でも、このまま見過ごせるほど俺は無関心じゃないんだ」


 シュンの瞳には、高校時代のやんちゃさとは違う、責任感の光が宿っているように見える。ユイはそんな彼をじっと見つめ、心を決めた。

 「分かった。私でよければ協力する。大学で統計とか薬学の知識はそれなりに学んだから、どこが変なのかもう少し詳しく調べてみるよ」


 こうして、久しぶりの再会は、思いもよらぬ形で大きな謎への入り口になろうとしていた。薬剤師としての一歩を踏み出したユイには、まさか自分が“新薬の不正疑惑”に巻き込まれるとは想像すらしていなかったのだ。

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