Ⅱ 天使の魔導書

 だがその一方、この時代において正しき神の教えは、歴史上最大の危機にも瀕していた……。


 それは、神聖イスカンドリア帝国ザックシェン選王侯領の司祭マルティアン・ルザールが預言皇の権威を否定し、『聖典ビーブル』の記載のみを是とする教会批判をしたことに端を発する。


 その『聖典ビーブル』至上主義は燎原の火の如く瞬く間にエウロパ全土へと拡がり、預言皇を頂点とする我ら〝レジティマム(正統派)〟に対して、〝ビーブリスト(聖典派)〟という異端的一大勢力を形成するまでに至ったのである。


 これまでにも公会議で選定された正しき神の解釈に違を唱え、異端的な思想を持つ集団が現れることはしばしばあったが、ビーブリストの勢いはその比ではない。


 無論、教会も神を信奉する各国王権もこの異端の討伐に乗り出しているが、神聖イスカンドリアに属する領邦国家のいくつかでは、マルティアンに協力し、ビーブリストに与する国まで出てきている始末だ。


 もっとも、そうした異端勢力の誕生を許したのには、我らレジティマムにも責任はある……それを購入するだけで犯した罪が消え、天国へ迎え入れられるなどという〝贖罪符〟を売って私服を肥やす輩をはじめ、今の教会が腐敗しきった欲得まみれの聖職者で溢れているのも否定はできない。


 加えて昨今は、民衆に対して魔導書グリモワーの所持・使用を固く禁じる反面、教会は〝魔法修士〟などという専門の修道士を設け、率先してその魔術の研究と利用を進めている。


 魔導書──それはこの世の森羅万象に宿る悪魔デーモンを召喚し、彼らを使役することで様々な事象を自らの想い通りに操るための方法が記された魔術の書……つまりは悪魔の力を借りるための手段が記された悪書である。


 その使役に神の御威光を後ろ盾としているとはいえ、悪魔の力を借りるなど言語道断な話だ。


 その上、教会の目が届く魔法修士の使用だけならばまだしも、世には非合法な魔導書の写本が出回り、無許可でその魔術を用いる輩までが闊歩している。


 このままでは異端どころか、悪魔崇拝を広めかねない危機的状況である。


 やはり、悪魔に由来する書物など聖俗問わず全面的に禁書とし、この地上から完全に排除すべきなのだ。


 とはいえ、魔導書の魔術のもたらす利益は絶大であり、教会も各国王権も、また違法に用いている罪深き者達もけして手放そうとはしないだろう……。


 そこで、我らが目をつけたのは魔導書の中でも悪魔ではなく、天使や天体の聖なる霊の力を召喚して利用する〝テウルギア〟と呼ばれる種類のものであった。


 〝テウルギア〟ならば、悪魔を呼び出し、直接悪魔と交渉するような愚かで危険な行いも必要としない……これからは既存の禁書政策をさらに厳格化し、〝テウルギア〟の使用のみを認める体制を目指すべきであろう。


 また、当然、ビーブリストら異端や悪魔崇拝者どもも魔導書の力を利用してくるに違いなく、我らもそれに対抗するために〝テウルギア〟の魔術に精通せねばならぬ……そうした理由で我は現在、膨大な蔵書数を誇る母校サン・ソルボーン大学の図書館を訪れ、その書庫の奥深くに所蔵される希少な〝テウルギア〟の一書を閲覧しに来ているのである。


 その一書とは『術師アヴラメリンの聖なる魔術書』という名の魔導書だ。聖守護天使を呼び出し、その加護によって悪魔を操ることができると云われている。


 しかも、通常の魔導書の魔術が魔法円や印章シジルを使用とするところ、この書はそれらを必要とはせず、四角形の枠にアルファベットの文字列を配した護符によって、すべてをなすという極めて特異なものであるらしい。


 薄暗い閲覧室の片隅で、禁書棚から持ち出されたその古い革表紙の一冊に我は目を通す。


 目を通すだけでなく、机の上に羊皮紙と羽ペンも用意すると、燭台の薄明かりの下で召喚魔術に必要な箇所を書写もしてゆく……もちろん、後で実際に儀式を執り行うためである。


 召喚魔術については、本来なら魔法修士のいる修道院で学べばよいところではあるが、それは魔導書を是としない我が信条に反する。


 そこで、司祭を目指してサン・ソルボーンへ入学する前、船乗りを辞めてから一時的に魔法修士になっていたという同志シェルモンに簡単な手解きを受けることにした。


 ちなみにもと魔法修士であるそんなシェルモンも、今では改心して悪魔に由来する魔導書の利用には反対の立場だ。


 さて、そうして数日かけて簡易的な写本を手に入れた我は、いよいよ『術師アヴラメリンの聖なる魔術書』による魔術を実践する。


 本来なら自己の聖別に半年の準備期間を必須とするが、聖職者である上に常日頃から〝鍛霊〟で心身を浄ている我には不要である。後は使用する道具の制作だけでよい。


 数日後、準備万端整うと召喚魔術に最適な静かで人気ひとけのない場所を選び、いよいよ聖なる守護天使の召喚に我は取りかかった──。

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