第12話 悪魔と精神科医
翌日。ジェイデン・レックス・スライミィはげっそりした表情で職場に現れた。手には朝食用のコーヒーと、サンドイッチの紙袋が握られていた。肩には黒く機能的なカバン。
「よっ、今日も早いな。ジェイデン」
そう言い、屈託なく笑うのは、サンダー・チェイロス・ホワイトウッズという、ジェイデンの職場の先輩であり、殺人事件の捜査をジェイデンと協力して行っている中年男性だった。
頭部には肋骨のような骨が二本ずつ左右に生えており、淡くて可憐な色合いの青い花を咲かせた植物が一輪ずつこちらもまた左右に生えている。この花は短期間で生えたり枯れたりする。花の色は季節や体調によっても変化すると聞いた。
毎日、色がかすかに違う白とクリーム色を基調としたスーツと、淡い水色のシャツを着ているので、遠目でもすぐに見つけやすい男だ。
「サンダーさんもいつもお早いですよね」
覇気のない声でそう言う。目の焦点が合っていない。
「どうしたんだ? 何か悩みでもあるのか?」
バシバシ、と肩を叩かれる。
「凄いぞ、目の下の隈(くま)」
「いや……大丈夫です」
げそっとした顔だ。
「あら」
手には小ぶりの林檎。肉色の触手の先端に目玉のような物がついた触角を頭頂部にもつ、肉食カタツムリ族の血を引く先輩女性が言う。ライサ・アンドルメリダだ。
「スライム君、おはよ。ホワイトウッズさんも」
語尾にハートがついていそうな声だ。
彼女が手に持つ小ぶりの林檎をよく見ると水滴がついていた。そして彼女はそれを、食べた。シャリシャリ、と音を立てて、挑発的に唇をめくり、白い歯を見せながら、林檎を咀嚼する。
ジェイデンが隣に立つ先輩であるサンダー・C・ホワイトウッズを見ると、何やら険しい顔をしているが、目はそらせないようで、また、少し汗をかいている上にかすかに頬は上気している。
どうせ、性的だとでも思っているんだろうな、この女性の事を。この中年男性は、色っぽいと世間一般的に定義される、標準化年齢で30代以降のルックスの良い女に目がないから。
(ていうか、林檎、切らないんだ……。うわぁ、うわあ……唇舐めてる……)
そんな事を思いながら、珍しくぼーっとする。
そこへ、毛羽立った薄ピンク色の安物っぽさを感じさせるマフラーが目に入った。
それを身に着けた彼女自身は焦げ茶色のぴっちりとしたタートルネックと黒色のスキニーパンツを履いている。そして兎の模様入りのブランケット……よく見るとなぜかニンジンではなくトマトとカボチャに囲まれ、すました顔立ちの
控えめそうで臆病な、服の上から見ても多少骨ばった体の、痩せた女性がやってきた。ジェイデンがたまに休憩時間に話す彼女の持ち物は、雰囲気も方向性も統一感がなく、いつものようにチグハグに見えた。
「おはようございまふっ! あっ、いえっ、おはようございますっ!」
彼女はマリー・ジェマイマート・モスマンだ。
目や鼻などがパーツの比率的に、あるべき所に収まっているという意味で美しい顔をした女性。バレッタと髪ゴムでざっくりと留めた髪を右側に垂らしている。
いつもおどおどしているが、こういうおとなしいタイプに限って、キレさせると爆発するのかもしれない。
彼女の担当は聞き込みと、追跡と、尾行エトセトラだ。
それは正解だと思う。熱意と意欲があったとしても、間違っても、誰もこんな、腕をちょっと強く握っただけで骨が折れそうなほど華奢で、気が弱く、臆病な性格の彼女に、尋問やら捕縛やら、強制捜査で杖や銃を持って玄関を蹴り壊して中に突入する役は、やらせないだろう。
周囲に居たさっきの林檎を齧り続けているライサ・アンドルメリダ、そして自分を相棒扱いしてくれるサンダー・チェイロス・ホワイトウッズが挨拶を返す。
自分も遅れて返事をした。
「おはよう、マリー」
背後で女性のハスキーボイスが聞こえた。彼女はアゴタ・ギンガムチェック・ベリーズだ。死体解剖と検死を担当する女性で、褐色の肌は高級家具に使われる希少な木材のようななめらかな色合いで、スキンケアが行き届いているからか、スーパーに売られている林檎のようにつやがある。
そしていつも風邪の病み上がりか、寝不足みたいな、怠惰そうな喋り方をする。趣味は確か一人チェスと、数独と、チェスのインターネット対戦だったか。
彼女はいつも殺人事件がある度に死体解剖をしているので、ズタボロになった臭いの酷い遺体を物差しやピンセットやメスや拡大鏡で調べ、劇薬も扱ったりする事には、慣れきっている。
アゴタの手にはピーナッツバターのサンドイッチと、生クリームたっぷりのかぼちゃマキアートと、ラズベリーチョコレートと、甘辛チキンの大きな、おそらく弁当屋で買っただろう弁当箱があった。食べる量が多く、体型は厳しい目で見れば肥満体と言えるからか、定期健康診断でダイエットを進める栄養管理士としょっちゅう口論になっている。
まぁ、こんな職場だから、食事という、本能的欲求の中で最もお手軽に自分を満たせる行為でストレスを発散したくなる気持ちは、理解できる、とジェイデンは思った。
…………。
ジェイデンが眠れなかった理由は、殺人事件の捜査が終わったらミミをおそらく速やかに手放さなくてはいけないという事。そして、会話はすべて録音されているし、録音中は盗聴まがいの事もされている。
ノイマン・ダッツェンというネズミの後輩の若者が配属されている部屋。そこに移動させられた事務処理をさせると箸にも棒にもかからない同期の筋肉がやけに発達した男が、それを聞ける立場にある。
妙な事をしていると思われれば、直属上司である、アルマーナ・ロカッピエに報告されてしまう。
つまり、ミミにどれだけ迫られようと(そんな日が来れば、の話だが)、言葉や声を全て記録されている状態で、ミミと身体接触するようなことをすればミミの可愛い声があの不潔な男に聞かれるのだ。
それに下手を打てば自分の性的嗜好も、彼女とセックスを避けるための彼女を納得させる口実ではないとバレる。
日々の筋力トレーニングにより筋肉がやけに発達したあの男は、口がヘリウムよりも軽い噂好きだ。変態的レベルで、噂好きだ。
職場の同僚・上司・先輩・後輩全員が、自分の特殊性癖を知ることになったら。考えたらゾッとする。まず間違いなく、一部の警察官から、職場いじめの対象になるか、つまはじきにあうだろう。警官の中には汚職に手を染める者も一定数居るが、ほとんどの警察官は権力を振るうことに快楽を覚えたり、弱者をいたぶる事に性的快楽を感じるから警官になった訳でも、当然『被害者を近くで観察できて性的な充足と精神的な快楽を感じるから』警官になった訳でもない。大多数の警官には、『市民を守ること』『犯罪を取りしまり、世界を少しでも安全な場所にすること』『悪をくじき、善なる者と弱き者を守りたい』という正義感みたいなものが根底には多くの場合あるということは、痛いほど知っている。
その気持ちは自分にだってあるくらいなのだから。
児童誘拐殺人事件を食い止めたいという気持ち。
殺人事件を解決したいという気持ち。
こどもたちや、家のない人々、社会的に権力のない……食い物にされた被害者の人々。そしてもちろん、一般市民。そういう人々を守りたいという気持ち……。
その、はたから見ればうさんくさいとか、青臭いと思われるかもしれない正義感を表立って発揮しているのは、まだ警察署内での職務経験が浅い者たちと――昇進を諦めた者たちだけだとしても。
それでも、みな、警察官というのは、ごく一部の「どうしてコイツなんかが警官になっちまったんだ」と嘆かれるような極悪非道の腐ったリンゴみたいな警官を除いて、胸の奥には炎のような使命感が燃えている。
それは良いことだ。「金とか権力とかコネが欲しくてなんとなく入りました。あと犯罪者を近くで観察できて面白いし、被害者の弱みも握れて面白いしー……」などというような警官だらけになるよりも、大変素晴らしい事だろう。
しかし。その正義感が原因で自分が周囲の警官達から無視されたり避けられたり、情報を回されなかったりすれば、仕事に支障が出る。仕事に支障が出れば、面倒が待ち受けている。たとえば、異動願いを提出するとか。たとえば、名誉を
よってどんな形であれキス以上の情事を行う事は自分の倫理観から絶対に無い。
が、あまり断り続ければ、ミミは傷つくだろうか。
このままもし自分の恋愛感情が膨らんでいく一方だった場合。
「好きになってしまったので彼女と付き合い続けます。別れる? 冗談じゃない。俺と彼女は愛し合っているんです」
……なんて、情熱的な感覚に汚染された頭で思っている事を言ったら、その日のうちに、ボスに毎月末日にある人員評価を著しく下げるという決意をされ、月末には「彼は感情的で、感傷的で、雰囲気と心理操作に流されやすい間抜けだと思います。本当に残念です。私情を挟んで対象Aに近づいたなんて。
『感情的で感傷的で雰囲気と心理操作に流されやすい間抜けのクズ』と普段は冷酷なまでに現実的な彼女に判断されたとなったら、果たして、自分は殺人事件の捜査に引き続き参加させて貰えるのだろうか。それとも、事務処理に回されるのだろうか? あの、筋肉だるまみたいに。
(でも、欲しい。ミミさんが、欲しい)
(欲しい。絶対に欲しい。諦めたくない。今まで生きてきた上で、大事な事以外は大体妥協して諦めてきたけど、殺人事件の捜査をする事と、ミミさんへの恋心、こればっかりはだけは、諦める訳にはいかない……。絶対に、絶対に)
(…………)
(なんであの子の事がこんなに好きなんですかね……)
(……でも、邪魔だな、ボスは……)
暗い感情がジェイデンを支配した。
(……何か、彼女を、イグル・ギグル・バードガムマン殺人課副主任のように、手懐けられるネタは、無いのだろうか)
そう思った瞬間、足音が異様に近くまでやってきて、ピタリと止まった。
「もしもぉーし。ジェイくん……?」
声をかけられた。この胡散臭い声は、リセルソンだ。
「…………」
振り返る。
「職場でジェイくんは止めて下さい」
「ちょおーっと良いカナ? こっちおいでー」
おいでおいで、をするのは、芸能人みたいなグラサンをかけた、歌手か俳優のような美形セレブリティのようなルックスをした、金髪の長身男だ。髪は跳ねている。長髪だが、まだ仕事時間ではないのか、髪はいつものように黒の男物のシュシュでくくられてはいない。年は若そうに見えるが、確か、標準化年齢で、29歳だったはずだ。
彼は奇妙な経歴を持っていて、ジェイデンとはちょくちょくプライベートでも連絡を取り合ったり、遊んだりする仲だった。
彼は、精神科医だ。
敵になれば厄介だが、仲間のうちは、美味しい。
――そんな存在だ。
「移動しようか! ここでは、なんだし」
「そうですね」
「ふう」
同僚の机が並ぶこの部屋の、扉をリセルソンが開けた。ガラス扉なので、中も外も丸見えだ。ジェイデンが振り返りざまに、音がしないように扉を閉める。
廊下は換気で窓がかすかに開けられていて、先ほど居た待機室とは違って、冷暖房は年中切られている。
殺人課は、発足以来、伝統的に<トパズスタ連邦 国家国民安全推進署 犯罪対策 公安特殊捜査部>の中でも比較的裕福な『麻薬取締課』と『暴力団取締課』とは違い、金が無い。最も貧しい『青年課』ほど人員不足でも金が無い訳でもないが、どうでも良いことに
『内戦地に
とにかく暖房器具の可動していない廊下は部屋よりも涼しい。
歩く。
*
科学及び魔法痕跡研究室の近くに、心理検査・犯罪学・プロファイリング用資料室(監視カメラは常時作動している上、専用のキーカードが無くては書類は閲覧できない。強化ガラスで部屋は四方を覆われている)がある。
そこの内観を確認できる位置にあるグリーンカラーの背もたれなしのソファに、リセルソンは座った。そして「君も座れ」と真横のソファを指差し、ジェイデンに促した。
「何? リセルソン君。……例の話ですか?」
話すように促す。
「こっそり頼んだ、あの子の分の」
いつ誰が近寄ってきても、リセルソンにしか聞こえないように、声をひそめる。
「あのね。……本当に駄目。でしょ?」
「と言うと?」
「君の倫理観どうなってるの? 職場の同僚にストーカーのお手伝いさせるとか、バレたら俺、自宅謹慎か減給処分か懲戒免職だよ……!」
彼も小声だが、声には大袈裟なほどの感情がこもっている。
「いえ、逮捕だと思いますよ」
「……ふふ、ははは! こんな時にジョークを言う余裕があるなんて、流石だなぁ、大好きだよ君のそういう所」
「いえ、普通に逮捕だと思います。で、分析結果を教えて下さい」
「あのね、分析結果って言うけど、何をどう分析しろと?」
「察して下さい。精神科医でしょう。心理状態の把握なんて貴方にとってはプロのイカサマ賭博師がサイコロで六の目を三回出すのと同じくらい容易なはずです」
「……彼女、誰の目から見ても……付き合えて嬉しそうだったじゃないか」
「耳に蜂蜜を流されるような気持ちのいいお世辞を聞きたくて、君を頼ってる訳じゃありません」
「ジェイデン君はわざわざマッチョ君に聞かせてる録音を俺にも毎回聞かせてくれてる」
マッチョ君。チヂマ・マチギョの事で間違いないだろう。あの上腕二頭筋と胸筋とその他の筋肉とあごが発達した不愉快な男の顔を、ジェイデンは思い出した。
「録音を聞いても不安なの? 君の普段の怜悧な頭脳と冷静な判断能力はどこに行っちゃったんだ?」
「恋愛に関しての冷静さと合理的思考は、彼女の家に捨ててきました」
「じゃあ今から取り返しに行こう。どこに捨てたんだ? 彼女の唇の上か? それともベッドの中かな」
「サンドイッチを食べに給湯室に戻ります」
「美味しそうだね。俺はサーモンもいいけどポテトサラダのビーフサンドイッチも好きだな。あー、OK、分かった。本当の事を言おう」
「助かります」
「心理検査の分析結果とか国語力・数学力テストみたいに、真剣に尺度に従ってデータやらなんやら取った物じゃないからさ。ていうか、恋愛感情の程度をはかるテストなんて、あまりお目にかかれる検査項目じゃないからさ……。あくまで俺の見立てでは、こうじゃない? ってだけだけど」
「ええ」
「まぁ、彼女がよっぽど訓練されたスパイか、大女優の卵か、かなり重度の病的な嘘つきでもないかぎり、録音の声のトーンや、喋り方、特定の親密さを表すと考えられている単語の使用頻度、身体接触の回数、名前を呼ぶ回数、SNSの投稿内容、ぜんぶぜんぶ浮かれてるよ。お祭り気分じゃないかな。良かったね。女王陛下のお誕生日フェスティバルや、謝肉祭やカボチャ祭り、ジャカランダ花見祭りくらい浮かれてるはずだよ」
「そうですか……」
「まあ、カーレースみたいな速さで倦怠期が来るか、ご多分に漏れずいつものように君が変態的なサディズム性を発揮して彼女を心底ドン引きさせない限りは、数日中に愛想つかされる事はないだろうよ」
「俺を診断書が書けるレベルのサディスティック・パーソナリティー・タイプだと分類したような発言をしないで下さい」
「診断書? 書けないさ」
「ええ。『社会的生活を送れない』と『他者に迷惑・危害を加える』と『それについて強烈な自己嫌悪に陥る』の要項を全ては満たしていませんから」
「いやいや、最近はね、嗜虐病は裁判で加害者に有利に働くとかなんとかで、我らがトパズスタ連邦ではこの病名では診断書を書きづらくなってるんだ」
「初耳ですね」
「君は繊細で優しいよ。考え過ぎる所があるが。彼女も優しそうだ。善人同士、短い春を楽しめよ」
「……貴方は本当に、人の役に立っている精神科医ですよ」
「でも一つ言うとすると、『おとり捜査』って言葉の意味と『演技』って言葉の意味を電子辞書で調べ直して、定義を頭にインストールし直すべきだと思うね」
「お節介な精神科医は刺されますよ」
「なんで俺がネクタイをしないか知ってるかな?」
「堅苦しいのが苦手だからでしょう」
「患者に絞められて殺されかけたからだよ」
「リセルソン君……」
「まあ、心に留めておく。ねぇ、でも本当に、ちゃんと規約か契約書か何かを読んで状況を理解した上で、引き受けたの? それとも我らがボスは、君が美少女に手のひらの上で踊らされる様を見て喜んでるのかな?」
「俺は冷静ですし、ボスはもっと冷静な人ですよ。それに俺がやらなきゃ、君が関係を構築するんでしょう? テクニックと嘘を駆使して……」
リセルソンは、照れたように笑った。
「精神科医はマジシャンや神様じゃないからね? そんな簡単に恋愛感情なんて小手先のテクニックなんかで引き起こせないから」
「ご冗談でしょう。貴方が本気を出せば、きっとこの職場の同僚全員を無理やり恋に落とせますよ。1年もあれば、貴方の一挙手一投足に、惚れ込んだグンタイアリのような信者が完成するでしょう」
――それは前の俺の職業の事を言っているのかな? という目つきで、リセルソンは表情を固くした。しかしすぐに、心から少年のようなあどけない笑顔を浮かべた。
「ハーレムじゃないか。嫌なハーレムだなぁ、皆死体いじりが趣味だもん」
「趣味じゃありません、仕事です」
「俺ね、君のことは、いい友達だと思ってる」
「……はぁ、そうですか……? どうも……」
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