第2話 悪役令嬢に転生したけど破滅したくありません

 目を閉じると、まず浮かんでくるのは前世の記憶。

 朝から終電間際まで働かされ、クタクタになって帰っても上司からの無茶なメールが追い打ちをかける。


 夢と現実の区別がつかないほど毎日を消耗し、最後に過労で倒れ――それで「わたくし」は死んだ。


 でも、死んだはずのわたくしは、目覚めたら公爵令嬢の姿になっていたのだ。


 床から立ち上がると、そこは豪華な天蓋付きのベッドがあった。


 見上げると天井には見たこともないくらいきらびやかなシャンデリアが吊るされていて、壁も調度品もいかにも「貴族の御殿」といった雰囲気を放っていた。


 ついさっきまでいたブラック企業の狭いオフィスのイメージとはあまりにかけ離れた光景に、夢かと思って頬をつねってみても痛いだけで目の前の部屋は変わらなかった。


 そんな衝撃も束の間、わたくしはさらにとんでもない事実に気づいてしまった。


 鏡を見ると、赤い髪の凛とした表情の美女。

 その顔は気晴らしに遊んでいた乙女ゲーム「ローズ・オブ・セレナーデ」の悪役令嬢、ヴィクトリア・コーエンのものだったのだ。


 公爵令嬢であり、王太子の婚約者。そしてヒロインが現れて王太子に気に入られたら、ひどい仕打ちをする悪役。


 最終的には、婚約破棄されたうえに処刑されたり、国外追放されたり、ろくでもないバッドエンドが待ち受けていた。


 もちろん、そんな結末は真っ平ごめんなので、わたくしは前世の教訓を生かし、「自分の身は自分で守る」ための努力をせっせと重ねている。


 前世では人に頼らず我慢ばかりしていたのが仇になったけれど、今世では得た知識や境遇を活かせば、何とか命くらいは繋ぎ止められるだろう、と。


 わたくしが屋敷の庭で杖を構え、火魔法の練習を始めたのはまだ七歳の頃だ。

 公爵家の令嬢といえど、貴族のお嬢様が武術や魔法修行に熱心なのは珍しいことだった。


 周囲からは「淑女のたしなみを優先しろ」と言われたが、構ってなどいられない。


 わたくしが悪事を働かなくても、ゲームの強制力で婚約破棄の上に追放されたら、自分一人で生きていかねばならないのだから。


 火魔法は攻撃力が高い一方で、自分を傷つける危険もある。


 特にわたくしが研究している《浄化の炎》は、従来の火魔法の枠を超えた「聖性」を帯びる力で、記録にもほとんど例がない。


 失敗すれば大爆発を起こしてしまうリスクがあると古文書に記されていたが、「たった一つでも苦境を覆せる武器を持ちたい」という一心で挑んできた。


 そんな努力の甲斐あってか、わたくしは王立学園の高等部二年生になった時点で、曲がりなりにも《浄化の炎》を扱えるようになり、貴族同士の魔法試合でも一目置かれる存在になった。


 けれど、第二王子でありながら正妃の息子ゆえ王太子の地位にある婚約者のアラン殿下とは一向にうまくいっていない。


 そもそも彼は「ヴィクトリアの顔が好みじゃない」と堂々とのたまうし、わたくしがどれだけ愛想よく接しようと関心を持ってくれた試しがない。


 正直に言って、「好みじゃない」と言われるたびに前世の上司を思い出してしまい、あまり良い気分ではない。


 けれども前世から培った忍耐力で笑って受け流すのだ。ああ、これくらい屁でもないわ、と。


 そのせいで「おーほっほ」と見栄を張って高笑いをするのが、いつしかわたくしの癖になってしまった。


 周囲の貴族や令嬢たちからは「高慢ちきなお嬢様」「まさに悪役令嬢」と陰口を叩かれても、こうするしか身を守る方法がなかったのだ。


 そう、わたくしはあくまで必死に自衛しているつもりなのであって、悪役などでは決してない。


 アラン殿下の好みではないのは分かっているし、彼の周囲の取り巻きがわたくしのことを高慢だといってをよく思っていないのも、分かっている。


 だが、だからといって素直に《処刑エンド》に身を投じる気などさらさらない。


 もうすぐ、学園の新学期が始まる。


 噂では「孤児出身の平民だけれど、光魔法を使える少女が新しく入学するらしい」と聞いている。

 その子こそが「ヒロイン」である可能性が高い。


 乙女ゲーム原作どおりに話が動けば、わたくしは破滅一直線。

 とはいえ、いまさら焦っても仕方ない。


 わたくしは毎朝、魔法の特訓をして鍛えたこの身体と、鍛錬の末に身につけた火魔法のスキルを信じるしかない。


 何より、《浄化の炎》はわたくしの唯一の切り札となるはずだ。


 もっとも、乙女ゲームの世界だからといって、全てがゲームどおりに動くとは限らない。


 わたくしがアンジェリカをいじめたり、ましてや殺そうとするなんてことはあり得ないのだから、ゲームの通りに破滅する未来は避けられるはず。


 それでも、胸騒ぎがするのは気のせいだろうか。


 何か……不吉な影が迫っているような。


 けれど、いまはまだ夜明け前。窓の外の空は薄く白んでいて、街を包む静寂に、小鳥のさえずりが控えめに混じる。


「ふう……」


 練習を終え、わたくしは杖をそっと握りしめたままベッドに腰かける。

 ルームランプの暖かな明かりが、絨毯の上に長い影を落とした。


 広い部屋にわたくし一人だけ。


 昼間は煌びやかな公爵令嬢でいても、こんな時はなんだか心細い。悪役令嬢に生まれ変わろうと、人間の弱さはそうそう変わらないものだ。


 深く息を吐きながら、枕の下に隠している魔術書の表紙をなぞる。ここに書かれた呪文は、わたくしが開発した《浄化の炎》のために必要なものばかり。


 でも、まだ実践に耐えるほど完成していない。


 だから何が起こっても対応できるように、もっと強くならなければいけない。


 乙女ゲームがどうとか関係ない。あんな残酷な結末になど、なってたまるものですか。


「おーほっほ。わたくしは絶対に生き延びてみせるわ」


 自分の声がどこか震えているのを感じながらも、あえて高笑いをしてみせる。


 そうしてわたくしは、ゆっくりとベッドに身を横たえた。


 とにかく生き残る。そして幸せを掴む――前世では手に入れられなかった最高のハッピーエンドを、今度こそ掴んでやるのだ。


 この先、学園での生活がどう転ぼうとも、わたくしは諦めない。


 もし本当に「ヒロイン」が現れたとしても、そしてわたくしが「悪役令嬢」だとしても、絶対に諦めない。






 まだ誰も知らない。


 これから待ち受けるのが、乙女ゲームどおりの恋愛模様ではなく、もっと凄惨な――いわばゾンビだらけの悪夢だなんて。


 しかし、それは後に思い知ることになる。わたくしも、王太子アランも、この国の誰もが予想しなかった形で。


 夜が明ける。

 平穏に見える王都の街路に、新たな一日が降り注ぐ。


 だが、その朝日の裏側で、運命が少しずつ歯車をずらしはじめていた。わたくしの胸騒ぎが正しかったのだと証明するかのように。

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