乙女ゲームの悪役令嬢だと思っていたのにゾンビゲームなんて聞いてない
彩戸ゆめ
第1話 世界崩壊の序曲(プロローグ)
わたくしは生徒会室の窓辺に立ち尽くしていた。
目の前に広がる信じがたい光景――その圧倒的な異様さに、思考が停止しそうになる。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
窓の外の、整然と整えられた学園の中庭。
その芝生の上に、今、この世界に存在するはずのない【ゾンビ】たちが群れを成している。
青白く変色した皮膚、虚ろな瞳、唇の端からよだれのように垂れる血。
ぎこちない足取りで地を踏みしめながら、何かを求めるかのように意味もなく手を伸ばし、生徒たちが避難する学園棟のほうへと近づいてくる。
耳に届くのは、うめき声。
生者の会話とは程遠い、不快で不協和な音の連続。その音に、わたくしの背筋は凍りつき、胸が押しつぶされそうになる。
彼らの姿は、まだゾンビになったばかりのせいか、腐り落ちた部分こそ少ないものの、歪んだ動きと得体の知れない威圧感が嫌でも生者と異なることを主張していた。
そして、その異形の集団はゆらり、ゆらりと蠢きながら、無垢な学園を侵食していく。
「どうしてこんなことに……」
わたくしのつぶやきは、生徒会室の静寂に吸い込まれ、消えていく。
そんなわたくしの元へ、パトリック様が重々しい足音とともに近づいてきた。
その顔には、聖騎士としての決意と責任がにじんでいる。
「ヴィクトリア、ここは危険だ。避難しよう」
パトリック様の声は毅然としているが、その端々に焦燥が滲んでいた。
彼はわたくしの手を引き、すぐにでもここを離れようと促す。その手の温もりはしっかりとしているものの、わたくしの指先は冷え切ったままだ。
「避難といっても……どこへ行けばいいのです?」
わたくしは小さく首を振り、静かに問い返す。
窓の外の光景を脳裏に刻み込んだまま、冷静を装って言葉を紡ぐが、その声は震えていたかもしれない。
パトリック様はわたくしの質問に答えるように、壁際の大きな本棚を指さした。
その瞳にはこの混乱の中でも一筋の希望を見出そうとしているかのような光が灯っている。
「王族は代々、生徒会に入る規則がある。それに伴い、万が一の際に備えた秘密の通路が設けられているんだ。この通路を使えば、王城まで安全に避難できる」
その言葉に安堵すべきなのかもしれないが、わたくしの心は乱れていた。
「――逃げるのであれば、他の生徒たちを先に逃がすべきですわ」
わたくしは視線を外さず、毅然とした口調で告げた。
自分だけが逃げ延びるなど、到底許される行為ではない。それは、貴族令嬢としての誇りが許さないし、前世の記憶を持つ者としても、その選択肢は取れないものだった。
わたくしの答えに、パトリック様は一瞬言葉を詰まらせた。だが、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。その笑みは、まるで青空を切り取ったかのような瞳に温かさを宿していた。
「あなたならきっとそう言うと思っていました」
まるで、わたくしの決断を心の底から信じていたかのような口ぶりだった。
そして、パトリック様はすっと片膝をつき、わたくしに手を差し出した。
その動作は、この状況では場違いなほどに優雅で、洗練された所作だった。
まるでプロポーズでもするかのように――。
「学園の裏手には聖水庫があります。そこには、ゾンビを浄化するための聖水が蓄えられています。もしもあなたが《浄化の炎》を使えるのなら、それと併せて強力な武器になるはずです。どうか、わたしと一緒にそこへ向かっていただけませんか?」
こんな状況でそんな余裕のある態度を、と思いながらも、彼の瞳に宿る真摯な思いに、わたくしは静かに微笑んだ。
彼の差し出した手を取る瞬間、わたくしの胸に不思議な温もりが広がる。
「もちろんですわ。喜んでお供いたします」
そうして、わたくしとパトリック様の運命を変える道のり、今始まろうとしていた。
生徒会室の外では、ゾンビたちが蠢く音がさらに近づいている。その音に押し出されるようにして、わたくしは彼と共に動き出した。
――この世界の崩壊を、止めるために。
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