第8話

 7月のある暑い日、夏休み目前の学校はどこか浮かれた空気に包まれていた。窓の外では真夏の太陽がぎらぎらと輝き、アスファルトから立ち上る陽炎が視界をぼんやりと揺らしている。教室の中は、薄いカーテン越しに差し込む日差しでじんわりと熱がこもり、扇風機の羽音だけが頼りない風を運んでいた。


 学生たちはみんな、休みの計画を話したり、期末試験から解放された喜びを謳歌したりしている。そんな中、俺は教室の自分の席で、珍しくため息をついていた。


「米内くん、何してるの? そんな顔してると、余計暑くなるよ?」


 唐突に声をかけてきたのは南雲だった。彼女はいつものさっぱりしたその黒髪を揺らしながら、俺の席に勢いよく近づいてきた。彼女の白いブラウスは少し汗で貼りついていて、光を浴びた肌がどこか眩しい。


「いや、暑いんだよ。この教室、クーラー効いてるのかよ……。」

「そりゃあ効いてるけど、米内くんみたいに動かないと余計暑く感じるんじゃない?」


 南雲は涼しい顔でそう言いながら、俺の机に肘をついてきた。その近さに少しドキリとしたが、表面上は平然を装う。


「それで? 今日は何か用か?」

「用ってわけじゃないけど……暇なら付き合ってほしいなって思って。」

「あぁ?」


 俺は目を丸くした。


 ▽


 蝉の声がジリジリと響く中、結局、南雲に引っ張られる形でショッピングモールへ行くことになった。理由は簡単で、「買い物を手伝ってほしい荷物持ちをしろ」ということだった。正直、面倒だと思ったが、南雲に頼まれるとなんだか断りづらい。


 モールに入った瞬間、クーラーの冷気が肌に心地よく、少しだけ安堵する。窓越しに見える外の青空は、入道雲がもくもくと盛り上がり、今にも夏の雷鳴を轟かせそうな勢いだ。


「ねえ、米内くん、これ似合う?」


 南雲が麦わら帽子をかぶってこちらを振り返る。帽子のつばが彼女の顔に影を作り、その下から覗く彼女の瞳は、夏の青空のように澄んでいた。思わず見とれそうになるのを必死で堪えた。


「うーん、似合うんじゃないか?」

「え、ちゃんと見てる? 適当すぎるよ!」


 南雲は頬を膨らませて俺をじっと睨む。


「いや、似合ってるって。本当だってば。」

「なら、もっとちゃんと褒めてよぉ!」

「俺にそんな高度なスキルを求めるな。」


 俺たちのやり取りに、近くにいた店員さんがクスクス笑っているのが見えた。漫才か何かだと思われたのかもしれない。


 ▽


 買い物を終えた後、フードコートで一息つくことにした。天井から吊り下げられたファンが回り続ける中、俺たちは並んで座り、冷たいアイスクリームを二つ買う。アイスの表面がほんのりと溶け始め、カップの周りに水滴が浮かんでいた。


「ほらお前、それ溶けるぞ。」


 アイスを眺めていた南雲に、俺が声をかける。彼女は「あ、ほんとだ」と慌ててスプーンを取り出し、口に運んだ。


「ん、おいしいな!」


 南雲の無邪気な笑顔に、周囲の視線が集まる。彼女は学校でもモテるし、こういう場所でも目立つ存在なのだろう。蛍光灯の白い光が、彼女の黒い髪を艶やかに照らしている。


「お前、そうやってアイス食べてるだけで周りの注目集めてるの、気づいてるか?」

「えぇ? そうなの?」


 南雲は首をかしげながら、口の端にアイスを少しつけている。その姿がまた妙に絵になっていて、俺は思わず笑ってしまった。


「なに笑ってるのさ!」

「いや、口元……。ほら、ついてるぞ。」

「あ、ほんとだ! 米内くん、拭いて!」

「そのくらい自分で拭けよ!」

「だって、手がふさがってるんだもん。」


 仕方なくナプキンで彼女の口元を拭いてやると、南雲は満足そうに笑った。


「ありがとう、米内くん。苦しゅうないぞ頼りになるねー。」

「だから、それくらい自分でやれって……あと本音出てるから。」


 俺は疲れてため息をついた。


 ▽


 その後、南雲が「ちょっと寄っていこうよ!」と提案してきたのはゲームセンターだった。普段なら断るところだが、この日はなぜか彼女の勢いに流されてしまう。


 ゲームセンターの中は、冷気とともに鳴り響くゲーム音で溢れていた。光るパネルや派手なデモ画面が、どこか非現実的な空間を作り出している。


「よーし、まずはクレーンゲームから!」


 南雲は張り切って景品を狙い始めた。狙いは大きなぬいぐるみ。しかし、なかなか掴めないらしく、何度も失敗している。


「うわっ、あと少しなのに!」

「おい、そんなに熱くなるなよ。無駄遣いだぞ。」

「じゃあ、米内くんがやってよ! 私、これ欲しいな!」


 俺は仕方なく代わりに挑戦することになった。クレーンゲームは得意ではないが、なんとかして取らなければならないというプレッシャーを感じる。


 数分後、奇跡的にぬいぐるみをゲットした俺は、南雲から拍手喝采を受けた。


「やった! 米内くん、すごい!」

「ただの運だろ……。」

「でも嬉しい! ありがとう!」


 南雲は大きなぬいぐるみを抱きしめながら笑っている。その笑顔を見ていると、なんだか悪くない気分になった。


 ▽


 夕方、俺たちは帰路についた。西日が赤く地平線を染め、蝉の声は次第に少なくなっている。日が沈む少し前の生温かい風が、夏の終わりを少しだけ予感させた。


「今日は楽しかったね。」


 南雲がふとつぶやいた。彼女の横顔は、赤く染まる夕焼けに照らされ、どこか静かな美しさを纏っていた。


「ああ、まあまあ、悪くなかったかな。」

「なにそれ! もっと素直に言ってよ!」

「いや、楽しかったよ。ありがとう。」

「そうそう、それでいいの!」


 南雲は満足そうに笑った。


 家に着く直前、南雲が立ち止まる。


「今日は付き合ってくれてありがとう。米内くんのおかげで、すごく楽しかった。」

「俺もまあ、楽しかったよ。お前のせいで疲れたけどな。」

「ふふっ。 でも、ありがとね。」


 南雲は軽く手を振りながら家路へと向かっていった。その後ろ姿を見ながら、俺はこの夏の記憶を胸にしまった。

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