第7話

 6月の終わりに差し掛かり、梅雨の雨脚はますます勢いを増していた。この日も朝からしとしとと降る雨が、校舎の窓を伝って細い線を作っていた。


 授業が終わり、放課後。俺、米内悠樹はいつものように教室で一息ついていた。そんな中、教室のドアが勢いよく開き、南雲光凛が入ってきた。


「米内くん、傘忘れちゃった!」


 南雲は濡れた髪を手で払いつつ、申し訳なさそうな顔をしている。さっきまで教室の外で誰かと話していたのだろうか。少し顔が紅潮しているようにも見える。


「またかよ……。昨日貸した傘、どうしたんだ?」


 俺は苦笑いしながら、南雲の軽率さに呆れつつも折り畳み傘をカバンから取り出した。


「返したよ、でも今日は朝持ってくるのを忘れちゃって……。」


 南雲は小さく肩をすくめながら笑った。その姿はどこか無防備で、それでいて彼女らしい堂々とした雰囲気を崩さない。まさに“王子様”と言われるだけのことはある。


「じゃあ、また貸してやるよ。」


 俺が折り畳み傘を差し出そうとしたその時、南雲は手を振って言った。


「いや、今日は一緒に帰ろう! どうせ同じ方向だし!」


 ▽


 校門を出たとき、雨は一層強くなっていた。傘を差しながら歩く俺たちだったが、狭い折り畳み傘に収まるには限界があった。特に南雲は背が高く、肩幅も広いため、傘の外に出てしまう部分が多い。


「おい、もう少し中に入れよ。濡れてるじゃないか。」


 俺がそう言うと、南雲は気にする様子もなく、笑い飛ばした。


「大丈夫だよ、これくらい平気!」


 その言葉とは裏腹に、南雲の制服の肩部分はすでにびしょ濡れだった。雨が降り続ける中、俺たちは住宅街へと歩みを進めるが、途中で南雲がくしゃみをした。


「ほら、言っただろ。濡れるからって。」


 俺は眉をひそめながら彼女を見上げたが、南雲は気にせず笑っている。


「君って、意外と世話焼きなんだね。イケメンじゃん。」


 その無邪気な笑顔に、俺は一瞬返す言葉を失った。南雲の髪から滴る水滴が、まるで彼女の輝きを強調しているように見える。


「褒めても何も出ないぞ。」


 俺は冷たく言い返したが、内心では少しだけ胸が高鳴るのを感じていた。


 ▽


「ねえ、このままだと風邪ひいちゃいそうだから、どこかで雨宿りしようよ。」


 南雲が提案してきたのは、住宅街の路地に差し掛かったときだった。周囲を見回しても、雨を避けられる場所はなさそうだった。


「仕方ないな……。じゃあ、俺の家に寄るか? ここから近いし。」


 口を突いて出た言葉に、自分で少し驚いた。南雲を家に招くなんて考えたこともなかったが、状況的にそれ以外の選択肢がなかった。


「えっ、米内くんの家? 面白そう! 行こう!」


 南雲は目を輝かせながら答えた。その無邪気さに、俺は少し呆れながらも家の方向へ足を向けた。


 ▽


 俺の家に着くと、南雲はすぐに玄関で靴を脱ぎ、キョロキョロと室内を見渡していた。


「へえ、米内くんの家、思ったより綺麗だね。」

「余計なお世話だ。」


 俺はそう言いつつ、タオルを取り出して南雲に手渡した。


「これで拭けよ。服も少し乾かさないとまずいだろ。」


 南雲はタオルを受け取ると、素直に髪を拭き始めた。その姿は普段の凛々しさとは少し違い、どこか柔らかい雰囲気を感じさせた。


「ねえ、米内くん。」


 髪を拭き終えた南雲が、唐突に口を開いた。


「ん?」

「こうやって二人きりでいるのって、なんだか不思議だね。」


 南雲の言葉に、俺は少し考え込んだ。確かに、こんな状況になるとは思ってもいなかった。


「まあ、確かにな。お前みたいな奴が俺の部屋にいるなんて、想像もつかなかった。」


 俺がそう答えると、南雲は微笑んだ。


「そういう意味じゃないよ。ただ、こういう雨の日って、いつもと違う時間が流れてる気がするんだよね。」


 その言葉に、俺は少しだけ頷いた。確かに、雨の日にはどこか特別な空気が漂っているように感じる。


 ▽


 しばらくして、南雲の服を乾かすためにヒーターをつけた。俺たちは部屋の隅に座り、適当に雑談を続けていた。


「米内くん、わりと居心地いいよね。」


 南雲がふと漏らした言葉に、俺は顔をしかめた。


「なんだよそれ。」

「だって、本当だもん。なんか安心するんだよね。」


 南雲の言葉に、俺は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。


「お前、そうやって人を油断させるのが得意だよな。」

「え? どういう意味?」


 南雲が首をかしげる。その無邪気な表情に、俺は少し言葉を詰まらせた。


「いや、なんでもない。」


 その時、ふとした沈黙が部屋を包んだ。雨音だけが微かに聞こえる中、南雲がぽつりと言った。


「米内くんとこうして一緒にいるの、悪くないかもね。」


 その一言に、俺は思わず彼女の顔を見た。南雲の横顔はどこか穏やかで、そして、少しだけ照れているようにも見えた。


「……まあ、たまには悪くないかもな。」


 俺がそう答えると、南雲は満足そうに微笑んだ。


 ▽


 やがて雨は小降りになり、南雲の服もほとんど乾いてきた。


「そろそろ帰るよ。ありがとう、米内くん。」


 南雲が立ち上がり、傘を手に取る。その後ろ姿を見送りながら、俺はふと、彼女との距離が少し縮まった気がした。


「気をつけて帰れよ。」

「うん。また明日ね。」


 南雲が玄関を出ると、彼女の背中はどこか晴れやかに見えた。


 この雨の日が、俺たちの関係に少しだけ変化をもたらしたのかもしれない。そんなことを考えながら、俺は静かになった部屋に一人戻った。

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