第1話

 南雲光凛の騒動が収まった後、俺は教室に戻ろうと足を動かしていた。校舎の窓から差し込む陽光が初夏の訪れを告げるように暖かく、周囲の景色は鮮やかな緑に染まっている。日差しはじりじりと肌を焼き、背中には汗がじんわりとにじむ。時折吹き抜ける風が葉を揺らし、その音がどこか心地よかった。


「米内くん!」


 後ろから明るい声が聞こえた。振り返ると、少し小走りで追いかけてくる南雲光凛の姿が目に入った。廊下を歩くたびに他の生徒たちが彼女を見てざわつくのがわかる。南雲の颯爽とした佇まいと人を引きつける笑顔は、やはり目立つ。


「えっと、さっきは本当にありがとう。助かったよ。」


 そう言いながら南雲は柔らかい笑顔を見せた。風が吹き抜け、彼女の短い髪がふわりと揺れる。こんなに爽やかな笑顔を向けられたら、大抵のやつは一瞬でやられてしまうだろう。


「いや、別に助けるつもりはなかったけどな。あのまま放っておいたら先生が来て面倒になりそうだったからだ。」


 そっけなく答えると、南雲はクスッと笑った。


「そっか。でも、誰も手を差し伸べてくれない中で米内くんが来てくれたのは事実だから。私にとっては、それだけで十分だよ。」


 うまくかわされた気がして、俺は少し居心地が悪くなる。この王子様的な雰囲気を持つ南雲光凛が、俺みたいな地味なやつにこんなにも優しい理由がわからなかった。


「で、何か用か?」


 そう話を切り出すと、南雲は少しだけ考えるような表情を浮かべた後、こう言った。


「うーん、別に用があるわけじゃないけど……少し話したくて。米内くんって、普段どんなことしてるの?」

「急に何だよ。俺は普通に授業受けて、部活もやらずに帰ってるだけだ。」

「そっか。なんか、もっと特別なことしてる人なのかと思った。」

「はぁ?」

「だって、さっきの様子を見てたら、周りの空気を読んで冷静に対処してたし、なんだか頼りがいがある感じがしたから。」


 南雲の言葉に、一瞬返答に詰まった。頼りがいがある? 俺が? 冗談だろう。そんな言葉を今まで誰かに言われたことなんて一度もなかった。


「勘違いだろ。それに、俺は目立つのが嫌いなんだよ。お前みたいなやつとは違ってな。」


 自分でも少し刺々しい言い方をしてしまったと思ったが、南雲はまったく気にする様子もなく、むしろ楽しそうに笑っていた。


「そういうところも面白いね。米内くんって、自分のことよくわかってるみたいで素直だよね。」

「あぁ?」


 またしても訳のわからないことを言われ、俺はますます混乱するばかりだった。それでも、南雲は特に気にした様子もなく、「じゃあ、またね」と手を振って去っていった。


 彼女の背中を見送りながら、俺は自分の胸の奥に少しだけ妙な感情が芽生えているのを感じた。それが何なのか、この時点ではまだはっきりとはわからなかった。


 ▽


 その日の放課後、俺はいつものように教室を出て下駄箱に向かっていた。廊下にはまだ残っている生徒たちの姿がちらほらと見える。そんな中で、またしても南雲光凛の姿を見つけた。


 彼女は下駄箱の前で立ち止まり、何やら困った様子で周りを見渡している。何かあったのかと思い、つい視線を向けてしまった。その瞬間、南雲の目がこちらを捉えた。


「あ、米内くん!」


 そして、彼女は嬉しそうに手を振りながら近づいてきた。


「またお前かよ。今度は何だ?」

「ちょっと上履が見つからなくて……もしかして隠されたのかな?」

「隠された?」


 思わず眉をひそめた。この学校では、いじめなんてあまり聞かないが、もし本当にそんなことがあったなら放っておくわけにはいかない。


「どんな上履だ? 俺も探してやる。」

「え、本当? ありがとう!」


 南雲は安心したように笑みを浮かべた。その表情を見た瞬間、俺は妙に胸が熱くなるのを感じた。


 こうして、俺たちは下駄箱周辺を一緒に探し始めた。


 ▽


 しばらくして、俺たちは近くの廊下や階段下など、上履がありそうな場所を一通り探した。しかし、それらしきものは見当たらない。


「見つからないな。」


 俺がそう呟くと、南雲は少し申し訳なさそうな顔をして言った。


「ごめんね、米内くん。せっかく手伝ってもらったのに。」

「気にするな。これくらい大したことじゃない。」


 そう言いながらも、内心では何かモヤモヤとした感情が渦巻いていた。誰かが意図的に隠したのだとしたら、その理由が気になって仕方がない。


「とりあえず、先生に相談してみるか?」

「ううん、大丈夫! また明日探してみるよ。」


 南雲はそう言って微笑んだが、その笑顔にはどこか影が差しているように見えた。その後、俺たちは一緒に校門まで歩いて行き、そこで別れた。


 家に帰る途中、ふと南雲のことを思い返していた。なぜ彼女のような完璧な人間が、こんな面倒ごとに巻き込まれるのだろうか。案外、イケメンというのは苦労するのかもしれない、と失礼な考えが過ぎる中、初夏の夕暮れを歩いた。

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