校内一有名な王子様を助けたら懐かれた件。

犬飼

プロローグ

 初夏の昼下がり。校舎の窓から射し込む陽射しが廊下の床をやわらかく照らしている。新緑の香りを微かに運んでくる風が、開け放たれた窓から入ってきてはカーテンを揺らしていた。蝉の声が鳴り始めるにはまだ早いが、季節の移り変わりを思わせるぬるい空気が、夏の訪れを予感させる。


 廊下はいつも通り騒がしい。カフェテリアに向かうやつ、教室で昼食を広げるやつ、体育館に向かうやつ。それぞれの目的地へ散っていく人混みの中で、俺は自販機の前で何を買うか迷っていた。


「......こっちのレモンティーのほうが安いか。」


 小銭を握りしめながらぶつぶつ考え込む俺、米内悠樹よないはるきにとって、これがいつもの昼休みの光景だ。陽射しで少し温まった自販機のパネルに触れると、季節の移り変わりが実感できる。


 だがその日、少し離れた廊下の隅で、異様な空気を感じた。目をやると、南雲光凛なぐもひかり――あの有名な“王子様”が、女子に囲まれている。


 南雲光凛は、学年中どころか学校中の注目の的だ。整った顔立ちに優雅な仕草、男子制服がやたら似合う上に性格も優しい。まさに“完璧な人間”と言っても過言じゃない。

 俺には全く縁のない人種の代表格だ。


 けど、囲んでいる女子たちは様子がおかしい。

 その中の一人、見るからに気の強そうな茶髪の女子が、南雲の腕を掴んで強引に引っ張っている。


「ねえ、いい加減にしてよ! 私のこと避けてるでしょ?」


 茶髪の女子が詰め寄る。

 南雲は困ったような笑顔を浮かべているが、その微笑みにはいつもの余裕が感じられない。


「そんなことないよ。ただ、今は急いでて――」

「嘘つかないで! この間も私のDM、既読スルーしたじゃん!」


 ――あーあ、めんどくさいのに絡まれてるな。

 思わずため息をつきかけるが、別に俺には関係ない。

 正直、俺のような凡人が南雲光凛みたいな人間に近づいても、何の得にもならないだろう。


 けど、女子たちが騒ぎ始めたせいで周囲がざわつき始めるのが目に入った。

 人だかりができ始め、みんな南雲とその女子たちに注目している。

 南雲がモテるのはわかるが、こうしてトラブルになるのを見るのは珍しい。


「......めんどくさ。」


 俺は小さくつぶやいてから、足を踏み出した。


「おい、お前ら。」


 自販機の前から声を張り上げると、全員の視線がこっちに向く。


「あんまり騒ぐと先生来るぞ。そんなこともわかんねえのか?」


 茶髪の女子が俺を睨みつけてくる。


「は? 誰あんた?」

「ただの通りすがりだよ。邪魔なら消えてやるけど、先生呼ばれてもいいのか?」


 俺は冷めた視線を向けながら、腕を組んでみせる。

 茶髪の女子は顔を真っ赤にして反論しようとするが、後ろにいた別の女子が慌てて肩を叩いた。


「ちょ、やめときなって! 人目あるし、やばいよ!」

「くっ......」


 茶髪の女子は渋々手を放し、南雲を睨みつけたままその場を立ち去った。

 周囲の女子たちもそれに続くように去っていき、気まずそうに視線を逸らして散っていく。


「......やれやれ。」


 俺が肩をすくめると、南雲がふっと息をついて、俺を見つめてきた。


「ありがとう。助かったよ。」

「いや、別に助けるつもりはなかったんだけどな。勝手に先生呼ばれても面倒だし。」


 俺がそう言うと、南雲は柔らかく笑った。


「それでもさ、ありがとう。」


 なんだこいつ......俺みたいなのにも、そんな笑顔向けるんだな。

 少し居心地の悪さを感じた俺は、そっけなく返事をしてその場を去ろうとした。


 だが、南雲は俺の後を追うように話しかけてきた。


「米内くんだよね? 君が噂に聞いてた“ちょっと怖いけど頼れる人”なんだ。」

「は? 誰がそんなこと言ってんだよ。」

「ふふ、内緒。」


 廊下の窓から差し込む陽射しの中、南雲光凛の柔らかな笑顔が一瞬だけ眩しく見えた。

 俺の平凡な日常が少しだけ変わり始める――そんな予感がした。

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