第3章 魔法使いは濡れていた
魔法使いは濡れていた (1)
サリアリットは廊下を走っていた。
月明かりに照らされるネイゴルニーヤ城。ほんの数刻前まで使用人たちがワイバーン襲撃の事後処理に追われていたが、夜も更けたことで皆自室に戻っている。
灯りの消えた廊下にサリアリット以外の人の気配はない。今にも詰まりそうな呼吸と素足で走る音が、シンと静まり返った空間に吸い込まれていく。
自分がどこに向かっているのかもわからない。
ただ、爆発しそうなこの感情をどうにかしたくて。
恥ずかしい。死んでしまいたい。
目頭に溜まった大粒の涙が廊下の薄暗さに消えていった。
★
まだ城内で人々が忙しなく活動していた時分。
サリアリットはシムケン王の自室に呼び出されていた。
「サリーよ。今宵お前はハルカ殿のもとで夜伽せよ」
サリアリットの体温が一瞬にして熱くなる。普段なら一発ぶちこむところだが、今はそんな気は全く起きない。
シムケン王の顔の奇抜なメイクが綺麗に落とされていたからだ。
サリアリットは王族化粧の意味を知っている。人を捨て、情を捨て、国のための機械となる覚悟の証。相手を油断させ、欺き、操る、道化の面だと。
この部屋に通され、幼き日に一度見た以来の父の素顔に感慨はなく、一瞬驚いた後、これから王としての命令が自分に下されるのだと覚悟した。
「・・・ワシはあの男が恐ろしい」
思いがけない言葉が吐露された。この期に及んでおふざけの類は一切ない。ろうそくの明かりに揺れる父の顔が、王族化粧もないのに酷く青白く見えた。
「あの男は我々にまったく内を見せておらん。数多の人間を見てきたワシにすら、あの男の底が見えん」
恐ろしい。その言葉通り、シムケン王は怯えていた。
シムケン王はあの少年に、何か得体の知れない未曽有のナニかを感じていた。
人は他人と接する中で、表情、声色、仕草、空気感などからその人物のおおよそを読み取るものだが、あの少年からはわかりやすいそれっぽいものが、敢えて提示されているように思えてならなかった。
「なぜあの男はなにも聞かん? なぜ何も知ろうとしない? 縁もゆかりもない異世界で、なぜ言われるがままにその身を置けるのだ?」
突然別の世界に放り込まれた人間は、決まってこの質問をする。
―――もとの世界に帰る方法はないか―――。
そんな当たり前の質問すら、あの少年はしなかった。聞いてきたことと言えば、これから自分は何をすればいいか、だったとフィアーナが驚いた様子で報告してきた。
おかしい。そんなの順番としては後。この国の現状、敵の詳細、自分がこれから何に巻き込まれるのか。それらを知り、ひと段落してからでる質問だろう。
だから、それが一番最初にでるのは絶対に〝おかしい〟。都合が良すぎる。
「・・・おそらくあの男は、何も興味がないのだ」
それがシムケン王が行きついた推論。もしくは、単に〝面倒〟か。
この国の事情など眼中にない。もしかしたら、その命すら・・・
「あの男が地球人である以上、代えは効かん。あの男には何としても地球人としての役割を遂行してもらわなくてはならん」
幸いあの少年は弱い。武力を用いれば屈服させることは容易い。
そしてあの少年は、それを抵抗することなく受け入れるだろう。
降りかかる不当や理不尽を意に介さない。一切の悪感情を抱くこともない。
周囲の流れに身を任せ、そのままどこまでも行くことを良しとする。
その先がどのような場所だろうと関心がない。
まるで悟り切った神仏のような存在―――化け物。
シムケン王はそれを、サリアリットの前に置いた。
この国の姫たる証のティアラだった。
「サリーよ、あの者の心を縛れ。愛でも情でも構わん。この国を守りたいと、自らの意志でそう思えるほどの強固な縁を作るのだ」
何物にも興味がなく、その身すら秤にかけない狂人の思考ほど怖いものはない。
もしあの少年が〝この国の真実〟を知ったら、最悪この国を裏切り、ボルヘイム側につくことも考えられる。力で無理矢理というのは、本当に本当の最終手段。
だからその前に、ということだ。
シムケン王も一人の父として愛娘を売り渡すようなことは、できるならしたくない。
しかしその程度の情は王位を継ぎ、王族化粧をこの顔に施した時点で葬った。
国を守り、民を守る。
いくら心が痛もうが、判断を間違うことはあってはならない。
国家を運営するシステムでなければ、王である資格はないのだから。
★
ティアラを手に自室に戻ったサリアリットは、王の命令を実行するための支度に入った。いつもならメイドが開けてくれるクローゼットを自らの手で開ける。
ずらっと並んだたくさんのドレス。正直、こんなにいらないのだが、姫としての体裁と無駄遣いも経済を回す者の務めとメリマリに諭され、いろいろ取り揃える結果となった。職人さんには悪いが一度も袖を通していない物もある。
今探しているのも、その内の一着。
「・・・・・・・・・ありましたわ」
サリアリットは目当てのものを見つけ、手に取る。
ふう・・・。
思わずため息が出た。自分ももう〝そういうこと〟をすることも視野に入る年齢になったとして一応用意してはいたが、まさか本当に着ることになるとは。
サリアリットはかなりの勇気を動員して、それを身に着けた。
「―――――っ」
姿見に映る自分を見て、灯りを点けなかったことを心底後悔した。
同時にこれが、こういうシチュエーションで着るものだと理解させられたのだ。
シンプルながら細かい刺繡が施されたデザイン。すべすべのシルク生地は非常に薄く、月明かりにすら透けて体のラインが丸わかりだ。胸元もこんなに開いて、ファスナーを下ろすだけで一気に脱げてしまう。もちろん、そうすること前提なのだから、手間が少ない分合理的なのかもしれないが。だからといってこれは、ない。
(ないですわ・・・)
つい心の中で反芻してしまった。王の命令に異論はない。自分もこの国の未来のためなら、いつだってこの身を捧げる覚悟はしてきた。
だが、サリアリットにはあの少年が、王の言うような人物には思えなかった。
確かに彼にはわからない部分がたくさんある。
しかしそれは、彼と過ごした時間があまりにも短すぎるからであって、もっと時間を掛けていけば父の抱く不安は解消されるのではないだろうか。
(時間を・・・もっと長くご一緒すれば、ハルカ様のことを、もっと・・・)
胸が痛んだ。チクリではなく、それは確かな重い痛みだった。
時間さえ掛ければ。
その時間がないからこそ、自分たちは地球人の彼に飛びついたのではないか。
サリアリットは締め付けられる思いをぐっと抑えながら、大きめのストールを羽織り、この国の姫としての顔で自室を後にした。
彼は来客用の部屋で休んでいる。
落ち着かない気持ちが足を速めたのか、道中はこんなに長い廊下は初めてだと感じていたのに、いざ着いてしまうと実にあっという間だった。
(ハルカ様・・・)
サリアリットは、そこで気が付いた。
今の自分は、本当にこの国を想う姫だったか。
ノックをしようとした手が止まり、胸の鼓動に心を澄ます。
心臓は依然として苦しいくらい動いていて、今にも爆発しそうで。
それなのにそれが不思議と心地よくて、甘い蜜のようなものを全身に巡らせていた。
火照った体は早くこのドアを開けろと急かすのに、ノブを握ることはおろかノックすらしてくれない。
これからドアの向こうで起こることへの期待と不安がせめぎ合っている。
いや、きっと期待の方が上。
おかしい。部屋を出た時は間違いなく、自分はこの国の姫だったはず。
そのはずなのに、今の自分はまるで・・・。
「わたくしは、ハルカ様を―――」
サリアリットは思わず出そうだった言葉に、反射的に手で口をおさえた。
信じられない。まさか、自分が?
確かに彼は勇者だが、彼には戦士のような勇敢さも紳士のようなスマートさも自分の理想には遠く及ばない。身長だって自分より低いし、顔も女の子のようで、これまで妄想してきたホスト風イケメンと重なる箇所は一つとしてない。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
サリアリットは今、どうしても彼に触れたかった。
彼を少しでも。誰より近くに感じたかった。
そして彼にも、自分を誰より近くに感じてほしかった。
そんな衝動が自身を動かしていると知ったのは。
すでにノブに手を掛け、その先へ足を踏み入れた後だった。
灯りの消えた部屋。こちらの気配に気付いたのか、ベッドの上がもぞもぞと動く。
起き上がった。こちらをじっと見ている。
乾いた喉が鳴った。
ずっと握り絞めていたティアラが、ストールと一緒に床に落ちる。
もう止められない。止まりたくない。
サリアリットは静かに―――ゆっくりと前に進んだ。
★
サリアリットはぶつかるように壁にもたれかかった。
どれだけ走った回ったのか。苦しい。嗚咽が酷すぎて呼吸まで意識がいかない。
「ひぐ・・・ぅぅ・・・・・」
項垂れながら膝をつく。感情は滅茶苦茶で、津波のような悲しみと氷のような恐怖に震えた。堪らず肩を抱きしめ、露になった肌に冷たい汗が滲んでいた。
父の抱いていた懸念は本当だった。具体的なことはわからない。
ただ、〝間違いない〟ことだけがわかった。
信じられなかった。
あんなにも気弱で、泣き言ばかり言って、頼りなくにへらと笑っていた彼が。
自分を認め、受け入れてくれた彼が。
この心をあんなにも浮足立たせ、熱くしてくれた彼が。
あんなにも冷たく、がらんどうのような目をするなんて。
―――そんなことをしなくても、僕は救世主をやめたりしませんよ?
彼は暗いあの部屋で。何も無い虚空の目でそう言った。
あの瞳に感情と言えるものはなかった。
無。
ひたすら何もない黒が微動だにせず、こちらをまっすぐに見つめていた。
まるで別の空間。別次元の視点で心の奥底まで見透かされているようだった。
だとすると彼は、
そんなのはもう人間の思考じゃない。どうかしている。
自分たちはそんな得体の知れない怪物を、勇者として迎え入れてしまった。
危険だ。ならばすぐにでも父に報告して、早急な対処をするか。
(・・・・・・それは駄目)
それではこの国の民が犠牲になる。大丈夫。彼はまだこちら側だ。
「・・・・・・・・・・・・くッ」
サリアリットは堪らず唇を噛んだ。
人を憎いと思ったことは初めてだった。心が悍ましいものに侵食される。
恐ろしい感覚に抗うことができず、黒い感情がマグマのように湧いてきた。
「フィー・・・っ」
まさかあそこで、その名が出るとは思わなかった。
どんな時でも笑顔を絶やさない。
恵まれた自分とは対照的な境遇でも、自らの足で立ち上がる。
人としての強さを持った憧れの存在。
唯一無二の親友の名が。
―――それが、フィーさんの願いですから。
「……………」
負けた。まるで叶わなかった。彼の心の中には、きっと―――
「サリー」
「!?」
自分を呼ぶ声に、振り返った。
(ああ・・・どうして・・・)
なぜそんな風にしていられるのだろう。自分が今、どんな目であなたを見ているか。どんな醜い感情をあなたに向けているか、わからないはずがないのに。
「私も同じですよ」
「・・・・・・・・・え」
意味が分からなかった。
ただ煮えたぎっていたものが、急速に冷えていくのを感じた。
「ハルカくんがこの世界に召喚されたのは奇跡ですからね。そんな千載一遇の存在に、万が一にでもへそを曲げられたら困りますから。昨晩のうちに私も、ね」
フィアーナは静かに歩み寄り、そしてそっとサリアリットに寄り添った。
「でも失敗。あっさり断られてしまいました」
そう言って白いローブを掛けてくれる。生地に残った体温が剥き出しの肩に優しく伝わってきた。温かさに、またサリアリットの目から涙が溢れてきた。
「・・・ごめんなさい。わたくし・・・ごめんなさい、フィー・・・・」
「おお、よしよし」
フィアーナは親友の頭を胸に抱きしめ、優しく撫でた。
サリアリットは親友の胸に抱きしめられながら、泣いた。
「まったく、この世界を代表する美少女二人が形無しですね」
二人はその晩、一緒のベッドで眠りについた。
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