マウスとハカセ kyonsy

ハカセ、今日はいよいよ俺の番だろ、なるべく痛くないようにしてくれよな」

 つぶらな瞳、ピクピクと動く鼻。机の上でマウスがちょこまかと動いていた。

 ハカセは冷たい目で机の上を一瞥する。ときどき薬の匂いが鼻をかすめてきて、それが彼を苛立たせた。収納棚の上には馬の頭蓋骨や深海魚のホルマリン漬けがあり、それらはハカセがが歩くたびに揺れている。

ハカセは黒いカーテンを少しだけさすったが、それを開くことは無かった。光が漏れて、写真立てがチラリと反射した。

「痛い、痛い、痛い」

 人差し指と中指と親指を使って、頸背部の皮膚を三角テントのように摘まんだ。そして、そこにぶすっと注射針を入れる。

 グッと力を入れ、ピストンを押すと、オレンジ色の液体がマウスの中に入っていった。

「なんかいい気分だ、いい気分。とても幸せな気分だ」

 ちょうど五日後、そのマウスはほかの仲間と同様、賢不全で死に至った。ハカセはいつものようにため息をついた。

 ある日、研究室に新しくタカシという学生が配属された。

 朝御飯を食べてしばらくたったころ、ノックが二回なったのでハカセは、はーいと返事をした。すると水色で短袖のシャツに、ジーンズという格好の気の弱そうな男が「失礼します」と言って入ってきた。収納棚の上が揺れて、彼は心底びくびくしているようだった。学生の自己紹介、ハカセによる研究室の説明が終わるころには、日もとっくに暮れてしまい、「そろそろ時間ですね」というハカセの合図でその日は解散した。

 その夜、タカシはあまりよく寝れなかった。この研究室で自分は何ができるのか、ハカセは一体どんな人物なのか。他に配属された人はいないのか。期待の混じった沢山の疑問が彼の頭で駆け回っていた。

そして彼の知らないところで今日もマウスが死んだ。

 タカシはその日初めてマウスに注射をした。ブスリ、と生々しい触感が注射針を通して伝わってくる。

痛い、痛い、痛い、と、そんな声が聴こえてくるようだった。

彼の注射針の入れ方がまずいことをハカセは分かってはいた。だがあえて、タカシがマウスを降ろすまで、全く声を掛けないことにした。

「さて、今の入れ方はちょっとまずかったですね」

極度に緊張していたのもあり、タカシはハカセに心臓を鷲掴みにされたような感じがした。

「皮膚を摘まむ力が強すぎです。皮下を超えた筋肉、さらには静脈のところまで針が刺さってしまったかもしれません。今回が初めてなので仕方がないとも言えますが、次からは同じミスをしないよう、気を付けて下さい」

 タカシはひどく申し訳ない気持ちになった。それと同時に、ハカセのある種残酷な…でも科学者として当然ともいえる、道具を扱うような冷たい態度にショックと小さな怒りを感じた。

 それでもハカセは正しかった。マウスは三時間もしないうちに死んでしまった。体の深い所から投与した分、薬の吸収が早くなりすぎて、マウスの体が持ちこたえられなくなってしまったのだ。

 他のマウスの様子とそれについてまとめたデータについてハカセが説明している最中にも、タカシの頭からそのマウスのことが離れることは無かった。チラッとケージの方を見てみると、そのたびマウスは苦しそうに痙攣している。ハカセがマウスの死骸を生ごみの袋の中に捨てると、そのケージの中は空っぽになった。マウスの死亡率についてのデータをハカセが見せると、タカシは苦しげな顔をした。そこにはカッコつきでサンプル数五十と書かれていた。

 研究室の雰囲気にも慣れ始めたころ、タカシは久しぶりにマウスの注射をすることになった。しかし彼は固まったままだで、ハカセが、どうしたんですか、と声を掛けても、床の一点を見つめて俯いたままだった。

「マウスへ注射したくないんです」彼は小さな声でボソッとそう呟いた。

「そうですか、注射したくないのですね。代わりに私が入れることになりますが、それでもよろしいですか?」

 タカシは黙ったままだった。

「何のためにマウスを使っているかは、分かりますね?」

「それが人間の疾患の治療などに役に立つから、ですか?」

「そうです」ハカセはため息をついた。「同じ人間を実験に使うのは問題があるから、こうして使っているんですよね」

 はい、とタカシは小さく相槌を打った。それでも、あまり納得はしていない様子だ。ひたすら回る換気扇が、耳障りな音を研究室に響いていた。

「目の前の物に親切にすることだけが、優しさではないんですよ」

 黒いカーテンから漏れた太陽の光がちょうど注射器にあたり、その先端を光らせる。タカシがネズミの方へ振り返ると、その白衣がフワリと揺れた。

「分かりました」と、一言だけタカシは答えた。

 迷いはまだ残っている。手だって震えている。それでも、彼は刺す覚悟を決めた。

 手袋越しに伝う、白くて滑らかな獣毛の感触、少し熱い体温、蠢く筋肉。それらを全て受け止めながら、慎重に、正確に針を入れようとするタカシの様子を、ハカセはただ、少し寂しげに見守っていた。

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