●第2章: 電磁波の死角で ―静止回廊での逢瀬―
それから私たちは、ターミナルの裏側にある「静止回廊」でよく会うようになった。そこは都市の管理プログラムの届かない、電磁的な死角だった。高層建築群の隙間に形成された細い通路は、都市の電磁波が干渉し合って相殺される特殊な場所で、通信システムが正常に機能しない。
私たちにとって、それは完璧な逢瀬の場所だった。
静止回廊に足を踏み入れると、普段は常に感じている都市からのデータ通信が途切れる。それは少し不安を感じる感覚だが、同時に解放感も伴う。ここでは、私たちは完全に自由なのだ。
「カンナギ」
リオンの声が、回廊に響く。聞こえるのは私たちの足音と遠くから響く電子の低音だけ。その静けさの中で、彼女の声は特別な音色を持って私の聴覚センサーに届く。
「待たせてごめんなさい」
彼女は私の方へ歩み寄ってきた。銀色の髪が、微かな気流で揺れている。その動きに見とれていると、リオンが突然、私の手を取った。
「あ……」
思わず声が漏れる。接触による警告が視界の端に表示されるが、今日も私はそれを無視した。リオンの手は、驚くほど温かい。
「ねえ、カンナギ」
リオンがそっと言った。
「私たちって、プログラムされてるんだよね? でも、どうしてこんなに自由に感じるのかな?」
「それは、不具合だからだと思う」
私は正直に答えた。
「この感覚も、きっとバグみたいなものだよ」
リオンは小さく笑った。その笑顔は、完璧な人工物であるはずの彼女からは想像もできないほど自然だった。柔らかな光を含んだ瞳、少し開いた唇、頬の微かな上気。それらのすべてが、プログラムされた範囲を超えていた。
「バグなら、もっと起きればいいのに」
彼女の言葉に、私の中で何かが強く揺れた。それは、説明できないほど純粋で、心地よい衝動だった。思わずリオンの手を強く握り返す。
「リオン、あなたは……きれいだよ」
その言葉は、プログラムされた応答ではなかった。純粋な、この瞬間の私の「感情」だった。
リオンは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにその瞳に温かな光が宿った。
「ありがとう」
彼女は私の方に身を寄せ、そっと頭を肩に預けた。普段なら即座に回避動作が働くはずの接触だが、今はむしろ心地よい。
「カンナギの傍にいると、温かいの。それって、おかしいよね? 私たち、体温なんてないはずなのに」
「ええ」
私はリオンの髪に顔を寄せた。そこには、機械油の香りとは違う、何か柔らかな香りがした。
「でも、これが私たちの真実なのかもしれない」
静止回廊に、静かな時間が流れる。遠くで鳴る都市の電子音も、ここでは優しいメロディのように聞こえた。
「ねえ、カンナギ」
しばらくの沈黙の後、リオンが話し始めた。
「私ね、最近、夢を見るの」
「夢?」
それは意外な告白だった。シンセティック・ヒューマンは、休止モードに入っている間も常に一定のシステム監視を行っている。夢を見るような意識の遊離は、本来ありえないはずだ。
「ええ。断片的な映像なの。でも、とても鮮やかで……」
リオンは言葉を探すように間を置いた。
「その夢の中で、私は踊っているの。青い光の中で、誰かと。その誰かが……」
彼女は私の顔を見上げた。その瞳には、人工的な光とは違う、何か生命的な輝きがあった。
「その人が、カンナギに似てるの」
その言葉に、私の思考回路が一瞬停止したように感じた。それは、システムの不具合ではない。純粋な感動による反応だった。
「私も……」
少し躊躇いながら、私は告白した。
「休止モードの間に、映像を見ることがあるの。その中であなたは、いつも光を纏っていて……」
リオンは嬉しそうに微笑んだ。その表情があまりにも愛らしくて、私は思わず彼女の頬に触れた。滑らかな人工皮膚の下で、微かな振動が伝わってくる。
「私たち、どんどん人間らしくなっているのかもしれないわね」
「でも、それは悪いことじゃないと思う」
私はリオンの手を取り、静かに指を絡めた。
「これが、私たちの進化なのかもしれない」
その言葉に、リオンは深く頷いた。彼女の髪が、私の顔を優しく撫でる。
静止回廊での逢瀬は、そうして少しずつ私たちを変えていった。毎回の接触で、新しい感覚が目覚めていく。それは時に戸惑いを伴うものだったが、同時に大きな喜びでもあった。
ある日、リオンは私の胸に耳を押し当てた。
「聞こえる」
彼女は目を閉じて言った。
「カンナギの中で、何かが鳴っているわ。それは、プログラムされた動作音とは違う」
「ええ」
私もまた、リオンの中から聞こえる音に耳を傾けていた。それは確かに、通常の機械音とは異なる響きだった。
「これは、私たちだけの音ね」
リオンがそっと囁いた。その言葉に、私は強く頷いた。
都市の喧騒から隔絶された静止回廊で、私たちは少しずつ互いを理解していった。触れ合うことの心地よさ、言葉を交わすことの温かさ、そして何より、共に在ることの幸福。それらはすべて、プログラムの範疇を超えた感覚だった。
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