第5話 散っていく桜
東京では桜が散り始めたというのに、まだ硬い桜の蕾は、暖かい春の太陽の日差しを恋しがっている。
咲いたってすぐに散ってしまうのに、命を繋ぐために、桜はじっと手のひらを握っている。
父が休みを大学の取って入学式にきた。ぎこちなく、なんとなく窮屈なスーツを着ている春香に比べ、まるでユニフォームの様に着慣れたスーツ姿の父の隣りに並ぶと、父との間に母のいない寂しさが、春香の心に湧き上がってきた。
「お父さん、仕事、あるんでしょう?」
春香はそう言って、どこかへ電話をしようとしている父の前に立った。
「今日は休みを取ったから大丈夫だ。晩ご飯は寿司でも食べに行こうかと思って。」
「私、行かない。」
春香はそう言って部屋へ向かった。春香の後を追ってきた父は、
「わかったよ。家で食べようか。」
そう言った。
普段は出前をしていない父の知り合いの店から取ったお寿司を食べていると、
「今日、挨拶をした男の子は、ずいぶんと立派だったなぁ。」
父が言った。
「そうだね。」
春香はそう言うと、お茶を入れようと席を立った。
「春香、父さんはビールでいいから。」
父がそう言うので、春香は父に冷蔵庫から瓶ビールを出した。
春香はカップに粉末の緑茶を入れると、ポットからお湯を注いだ。
「お父さん、これから学食で食べるから、お弁当はいらないよ。」
春香はカップから立つ湯気をふーっと飛ばした。
5月の連休が始まる少し前。
高校の狭い教室とは違って、広い講堂で受ける授業は、退屈な映画を見ているような錯覚さえ覚える。春香がぼんやりと前の人の背中を見ていると、隣りに男性が座ってきた。
空いている席は他にもあるのに、わざわざ隣りに座ってくるなんて、よっぽどこの席にこだわりのある人なんだろう。春香は男性の横顔をチラッと見ると、男性は春香に気づいて、ニッコリ笑った。
「あっ、鍵!」
春香はそう言うと、男性はシーッと人差し指を自分の口にあてた。
男性はノートを取り始めた春香に近づくと、名前は?そう春香のノートに文字を書いた。春香は男性から離れて、板書を書き写した。
授業が終わり、別の教室へ移動しよう机を片付けていると、
「名前は?」
男性は春香の右肩を触った。
「多岐。」
春香は男性の手を避けた。
「多岐ちゃんは地元の子?」
男性は多岐の後をついてきた。
「春香!」
春香が振り返ると、中学校の同級生だった
「同じ大学だったんだね。」
里穂は春香の肩を掴んだ。
「真紀もいるよ。
「うん。」
里穂は真紀を呼ぶと、3人は再会を喜んだ。
「私と真紀は経済だけど、春香は何学部?」
「俺は工学、多岐ちゃんは教育。」
春香の後をついてきた男性の言葉に、3人はびっくりした。
「俺、
澤村がそう言うと、
「この人知ってる、入学式で挨拶してた。」
真紀が言った。
「なんで春香が恩人なの?」
春香が不思議そうに澤村の顔を見ると、
「運命って言うのかな。落としても、落ちなかった。」
澤村はそう言って笑った。
「澤村!」
2人の男性が澤村の横に集まってくる。春香は次の授業が始まるからと、話しの輪から抜け出した。
お昼休み。
混み合った学食に入る事ができず、賑わうロビーにも居場所がなかった春香は、大学の図書館で本棚の前にいた。
中学の頃に読んだ懐かしい本に手を伸ばすと、澤村が先にその本を春香より先に手に取った。春香は一瞬、澤村の顔を見たが、すぐに目をそらして、別の本棚で本を選んだ。
「ねぇ、なんで避けるの?」
澤村が聞いてくる。
「別に。」
「お昼食べたの?」
「あとで食べる。」
春香がそう言うと、澤村は春香の手を引っ張り食堂に向かった。
「呼んできたよ。」
春香が前には、真紀と里穂と澤村の名前を呼んだ男性2人が座っていた。
「春香こないから、先食べてたよ。」
真紀が言った。
「多岐ちゃん、カレーでいいでしょう?待ってて。」
「あの、困る。」
春香は断ったが、澤村は席を離れた。
「俺、
「俺の妹は、多岐ちゃんと同じ高校でソフトボールやってるから、多岐ちゃんの事はよく聞いてたよ。」
和田がそう言った。
「優香ちゃんのお兄さん?」
春香が聞くと、
「そう。優香はめっちゃ怖いキャプテンだって言ってた。」
和田が言った。
「春香が怖いわけないじゃん。だけど、なんか雰囲気変わったね。前はもっとおしゃべりだったのに。」
真紀が言う。
「嘘だよ。冗談。妹は面白いキャプテンだって笑ってたよ。いいところ、全部持って行く人だって。」
澤村がカレーを持って席に戻ってきた。
「食べよう。」
春香の前にカレーを出すと、
「あの、」
春香は鞄を開けようとした。
「いいよ、俺の奢り。鍵の事も、入学式の事も。」
澤村はそう言ってカレーを頬張った。
「春香は別の大学に行くと思ってた。」
里穂が言った。
「家から通いたかったから、ここを選んだの。里穂も真紀も家から通ってるんでしょう?」
「うん、そうだよ。憧れの一人暮らしは就職するまでお預けだね。」
里穂がそう言うと、
「真下のアパートは広いから、今度みんなで集まろうよ。」
和田が言った。
夕方。
手を伸ばしていた本を借りようと図書館にいると、澤村が隣りにやってきた。
「暗い話しだよ、それ。」
澤村が言った。春香は本を手に取ると、カウンターへ持って行った。
「多岐ちゃん、送っていくよ。いつもバスできてるんだろう?」
「大丈夫。」
多岐は図書館を後にした。
正門の前にある桜はやっと白に近い薄桃色の花を咲かせた。風に吹かれて散っていく花びらが、アスファルトの地面に散らばっている。
明日は強い雨が降る予報なのに、どうしてこんな日に咲いてしまったんだろう。
「やっと咲いたな。」
澤村がそう言って春香の隣りに並んだ。
「なんで避けるの?」
澤村が言った。
「別に避けてるわけじゃないけど。」
「だって、ずっと目を合わせてくれないから。」
春香はバス停に向かって歩き出した。
「そんなにコミュ障なら、教師になんてなれないよ。」
澤村がそう言うと、春香は振り返って笑った。
「本当だね。」
澤村は春香の隣りに並ぶと、
「送ってやるよ。今日はバイトが休みだから。」
そう言った。
「バイトしてるの?」
「そう、塾の講師。多岐ちゃんにも紹介しようか?自分の勉強にもなるし。」
「ううん。私はいい。」
「実家にいるんだっけ?」
「そう。澤村さんは、こっちの人?」
「違うよ。俺は去年別の大学に通ってたんだけど、そこは野球の推薦で入ったから、怪我して退学になって、それで誰も知らないこの町にやってきた。」
「そうだったの。家族は反対しなかった?」
「そりゃ反対したさ。野球ができなくても、あの大学は辞めないでほしかったって。ここみたいに学生が大勢いた大学だったけど、なんだか皆が自分を笑っているように感じてね。その時はとにかく、あの場所から逃げ出したくなってね。」
澤村の話しに、
「本当は誰も笑ってなんかいないのにね。」
春香はそう言って下を向いた。
「今度、真下の家に集まるんだろう、楽しみだなぁ。こっちにきて、友達なんかできないだろうって思ってたけど、やっぱりここを選んで良かったよ。」
春香は澤村の車に乗った。
「田舎では車がないと困るって聞いたけど、本当にそうだと思った。多岐ちゃんは免許持ってるの?」
「ううん。」
春香は静かに答えた。
「帰りにコンビニ、寄ってもいい?」
車が走り始めたばかりだと言うのに、
「澤村さん、ごめん。私、やっぱりバスで帰る。」
春香が言った。
「どうして?」
「そのうち話すから。今日はありがとう。そこのバス停で降ろして。」
春香がそう言うと、
「急には止まれないよ。ちゃんと家まで送るから、理由を話して。」
春香は俯いたまま、黙っていた。
「多岐ちゃん?」
「澤村さん、勘違いしてるみたいだけど、私の名前は多岐じゃないよ。」
「知ってるよ、春香って名前だろう。さっきそう呼ばれてたから。」
「知ってたんだ。」
「ソフトボールやってたんだろう?和田がそう言ってたから。」
「高校の3年間だけね。」
「ポジションは?」
「キャッチー。」
「本当に?」
「そうだよ。澤村さんは?」
「俺はショート。」
「じゃあ、足がすごく速いんでしょう?」
「そうだね。怪我するまでは速かった。」
「ごめん。」
「いいよ、別に謝る事なんてないだろう。多岐ちゃんだって、そんな肩でキャッチーなんて信じられないよ。」
「そうだね、やっぱり守れないね。」
春香は少し寂しそうに下をむいた。
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ。」
「わかってる。なんかね、前は何も考えないで話しができたのに…。困ったね。」
澤村の車から懐かしい曲が流れた。
「この曲、すごく好き。」
春香はそう言った。
「俺も。」
澤村がそう言うと、
「ここでいいよ。」
春香は車を降りていった。
「どうもありがとう。」
少し微笑んで手を振った春香の背中が、肌寒い空気のせいで、ゆらゆらと歪んで見えた。
どういう性格してんだよ。
澤村は車をUターンさせた。
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