第4話 氷の華

  昨夜遅くに降った湿った雪は、朝になると氷の華を咲かせた。 

 受験する大学まで父の車で送ってもらうと、帰りはバスで帰るからと、春香は父に手を振った。


 2月。

 漠然と描いていた未来は、少しずつ端から固まって行く乾いた現実となっていく。

 中学の時、

「多岐さんは明るいから、教師になればいいんじゃない?」

 そう言った担任の先生の言葉のまま、学生の延長線で教師になろうと思っていた。学校という空間しか知らない自分には、外の世界に足を踏み入れる恐怖もあったから。

 母が亡くなり、父との2人暮らしがはじまると、自宅から離れた大学を受験するよりも、近くにある大学を選んで試験を受ける事を決めた。どんな風に生きたいかなんて、正直よくわからない。大学くらいは行っておかないと…。そんな周りに流れる空気のまま、春香は自分のレベルにあった大学を探した。1人暮らしになる教育大の推薦を受けられなかった事は、返って好都合だったのかもしれない。

 家から通える距離にある大学は、私立の大きな大学で、比較的レベルも高くない大学だったので、模試の判定も良かった。父はもう少しランクの高い大学を受験するように言っていたが、家から離れたくないという気持ちを伝えると、予想外に掛かる学費の事も、案外すんなり受け入れてくれた。

 父とはたいした会話がなかった。それでも、玄関に自分の靴と父の靴が並んでいるのを見ると、いつも心が落ち着いた。

 あの日、自分がお弁当箱を学校に忘れなければ、母は苛立たないで、穏やかに家にいたのだろうか。救いようのない後悔が、ずっとこの家の中で答えを求めている。気がつくと、母が最後に買おうとしていた牛乳が飲めなくなった。コンビニへ入ると、母が最後に手に取った物が何だったのかを考え出し、結局何も買えずに出てくる事が続き、入らないようにした。夢でもいいから、母が出てきて、そんな自分に呆れたと、深いため息をついてほしい。

   

 試験の開始の合図で、一斉に答案用紙に文字を書き込むカサカサとした音がする。少しずつ考える時間が増えると、他の人が立てるその音なんて、あまり気にならなくなってくる。

 最後の空欄に解答し、窓の外の降り始めた雪を見ていると、試験官と目があった。

 春香は再び答案用紙に目を向けると、本当はこんなはずじゃなかったのに、そう思いため息をついた。自分の様子が気になるのか、試験官の足が春香の隣りで止まった。カンニングなんてしてないし、春香はそう思うと、この大学は自分を歓迎していないんだと卑屈になった。

 終了の声が掛かる。春香は急いで鉛筆をしまうと、さっさと大学を出ていこうと、玄関へ急いだ。

 混み合っている大学の正門前で、車の鍵を拾った。持ち主だと思われる男性の後を追いかけると、春香はその人の肩を叩いた。

「あの、これ、」

 春香が鍵を男性に渡すと、

「ああ、どうも。」

 男性はそう言って頭を下げた。

「試験の時に落とすなんて、笑えないな。」

 男性がそう言うと、春香は笑った。

「なんかおかしい?」

「だって、笑ってるのに、笑えないって。」

「そうだね、俺、変な事言ったか。」

「じゃあ。」

 春香はそう言って男性と別れた。


 2週間後。

 春香は試験の報告をしに学校にきていた。久しぶりに足を入れる上靴は、冷たく冷えていた。

「多岐。」

 玄関で遠山が声を掛けてきた。

「大学、決まったのか?」

「うん。」

「やっぱり、こっちの大学を受けのたのか?」

「そう。遠山くんは?」

「俺は教育大。多岐も受けるかと思ったのに。」

 遠山はそう言うと、

「そっか、おめでとう。」

 春香は職員室に急いだ。


 昨日、入学式代表の挨拶をしてほしいと大学から連絡があった。春香が断れずに悩んでいると、代わりに父が大学に事情を話して、丁寧にそれを断った。

「お母さんがいたら、すごく喜んだのに。」

 父がそう言うと、春香は部屋にこもった。

 積もっている雪の下には、失くした何かが凍っているのかもしれないけれど、春になればそんな事も忘れているはず。それは春になればの話しだけど。

 自分には春なんて来ない。ずっと氷の中にある何かを、硬くなった雪の山を見つめながら、いつ取り出しにいこうか、ずっと考えていくしかない。


 春香は担任に合格を伝えたあと、保健室に向かった。

「澤田先生。」

 春香が保健室のドアを開けると、中に遠山が座っていた。

「多岐さん、入って。」

 澤田が春香を遠山の隣りに座らせた。

「多岐さんも決まったのね。」

「はい。」

「やっぱりこっちに残るの?」

「そうです。」

「そっか。2人は一緒にいるのかなぁって思ってたのに。」

 澤田はそう言うと、春香の右膝を撫でた。

「多岐さん、転んだらいつでもここに来なさい。」


 春香は遠山と一緒に玄関に向かった。

「バスで帰るのか?」

 遠山が言った。

「うん。」

「何時?」

「何時だろう、15時のバスがあるかな。」

 遠山はバス停までついてきた。

「けっこう前の事だけど、今度アイスを奢るって言ってたよね。」

 春香が言った。

「そうだったな。それならちょっと、寄り道して行かないのか。」

「遠山くん、明日、何か用事ってある?」

「別にないけど。」

「じゃあ、13時にここで待ってて。」

 春香はそう言うと、青いマフラーに顔を埋めた。

「今日じゃ、ダメなのか?」

「うん。明日。」

 遠山は春香の口元を隠しているマフラーの裾を触った。

「何?」

「青、好きなのか?」

「うん。好きなバンドの人が、こういう色の青いTシャツをよく着てるの。」

「そっか。多岐と話す時は、いつも曇ってるのにな。どうしてこんな色を選んだのか、不思議だった。」

「そうだね。こんな青なんて、どこにもないね。」

 春香はそう言って俯いた。

 遠山が春香の肩に手を置くと、

「じゃあ、明日ね。」

 春香はそう言って、やって来たバスの方を向いた。

 空いているバスの窓側の席に座ると、遠山に小さく手を振った。


 次の日。

 雪の中を歩いて帰ったせいか、遠山は熱を出した。

 春香と待ち合わせの時間が過ぎていたのに気がつくと、慌てて行けなくなったとラインをした。

 なんてタイミングの悪い風邪なんだ。遠山はそう思い布団に包まった。

 バス停で待っていた春香は、遠山からのラインを見ると、たまたま遅れてきたバスにそのまま乗り込んだ。神様が少し慰めてくれたのかな。春香はひとつだけ空いていた席に座ると、頭を窓にもたれた。

 家に着いて、渡せなかったチョコレートを布団の中で食べた。自分が作ったチョコレートは、やっぱり美味しくなかった。チョコレートに限らず、自分が作った料理は、何を食べても美味しくなんかない。父はよく、何も言わないで食べていると思う。

 遠山に渡さなくて良かった。

 無理をしないで、コンビニでキレイにラッピングされたチョコを買ってくれば良かった。わざわざ遠山と会う口実なんか作らなきゃ良かった。

 春香はチョコを半分食べたところで、情けなくて涙が出てきた。

 遠山は鍵を拾ってくれただけなのに…。


 卒業式。

 父は仕事で抜ける事ができず、寂しさが募る中、教室を後にした。

「春香、今日、行くんでしょう?」

 柊子が追いかけてきた。

「行かないよ。」

 春香はそう言って柊子の手を握った。

「柊子、寂しくなるね。」

「夏休みには帰ってくるから、それに4年経ったら、こっちに戻ってくるんだし、すぐに会えるから。」

 柊子が言った。

「今日はなんで行かないの?」

「ちょっと、用事があって。」

 春香は嘘をついた。本当は用事なんて何もないのに、遠山と別のクラスの子が付き合っているようだと、柊子に聞いてから、バス停で待っていた間抜けな自分が恥ずかしくて、遠山に会いたくなかった。

 玄関に行くと遠山がいた。隣りにいる、女の子には見覚えがあった。熱を出して帰ろうとしている時、自分に声を掛けてきたあの子だ。学校推薦がどうのって言っていたから、澤田の言っていた松下なんだろう。

「多岐さんはこっちの大学に入るんでしょう?」

 松下奈美まつしたなみが春香の前にきた。

「大学も、遠山くんも、私のものになっちゃって、ごめんね。」

 奈美はそう言って春香を見た。春香は何も言わず、

玄関を出て行った。

 遠山は慌てて春香を追いかけたが、春香はバスに乗り込んだ後だった。

 遠山の上着を掴んだ奈美は、

「私、あの人嫌い。」

 そう言って遠山を見た。

「そんな言い方するなよ。それに、俺と松下は付き合ってなんかないだろう。勘違いするような事言うなよ。」

 遠山は奈美に言った。

「あの人、なんでもほしいものを簡単に手に入れるじゃない。それがすごく腹立つのよ。」

 奈美はそう言うと、遠山の手を握った。

「もう会うことなんてないんだし、放っておきなよ。」

 遠山は夕方のクラス会で、春香と会えるはずだと思っていたけれど、結局春香は来なかった。


“なんでこなかったんだ?”

 遠山は春香にラインをした。

“用事があって”

 春香から返信がきた。

“明日会えない?”

“約束守れなくてごめんね”

 それっきり、春香からの返信がなくなった。

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