第3話 約束
乾いた冬の風は、しっかり押さえたコートを脱がそうと、何度も何度も自分に吹き付けてくる。
この勝負に負けたら、自分は裸で氷の海に入る様な寒さを受け取らなければならないのか、春香はそう思い体を震わせた。
「遠山くん、ここで。」
春香は家の玄関の前で遠山にそう言った。
「入ってもいいか。」
遠山が言うと、
「ごめん、あとでラインする。」
春香は家の鍵をあけようとドアの前に振り返った。
鞄を探しても、家の鍵がない。
「ほら。」
遠山の手のひらには、春香の家の鍵が乗っていた。
「玄関で落としただろう。」
春香は遠山から鍵を受け取った。
「ごめん、ぜんぜん気が付かなった。遠山くん、それで追いかけてきたの?」
春香がそう言うと、
「違うよ。多岐に興味があったから付いてきたんだ。俺の前で鍵を落としてくれて、やっぱり神様っているんだな。」
遠山はそう言って笑った。
また目眩がして、鍵穴にさしたつもりの鍵が、春香の足元に静かに落ちた。それを拾った遠山は、そのまま鍵を開けて家の中に入っていく。
「遠山くん、帰りなよ。」
春香がそう言うと、
「そのうち適当に帰るから。それより早く薬飲めよ。」
遠山は居間を見渡し、薬を探し始めた。
「たぶん、ここ。」
春香は引き出しから薬を見つけると、それを見せた。
「水あるのか?」
「うん。」
冷蔵庫から3.5リットルのペットボトルを取り出すと、遠山は春香に代わってそれを持った。
「コップは?」
「こっち。」
何気ない事なのに、母との会話が戻ったみたいに、春香はホッとして遠山の顔を見て少し微笑んだ。
「早く寝ろよ。」
「そうだね。」
結局、春香の部屋までついてきた遠山は、
「着替えるまで、外で待つから。」
そう言って部屋の外に立っていた。春香が脱いだ制服をハンガーに掛けていると、遠山は静かに部屋に入ってきた。
「遠山くん学校は?」
「いいんだ、別に。」
遠山はベッドの横に腰を下ろした。
「ふ~ん。」
冷たいパジャマに着替えたせいか、春香は寒気がして急いでベッドに入った。遠山が近くにいる事は気になってはいたけれど、今は人の事を気遣う気持ちの余裕がなかった。
「寒くない?」
春香が言った。
「そうだな。」
遠山はストーブをつけた。
どれくらい眠ったのか、喉が渇いて目が覚めた。
「なんか飲むか?」
遠山は春香に声を掛けた。
「そうだね、水持って来る。」
春香はベッドから起き上がると、
「なんか買ってこようか、そこにコンビニがあったから。」
遠山はそう言った。春香はコンビニへ出掛けたまま帰ってこなかった母の事を思い出し、遠山を引き止めた。
「行かなくていいよ。」
2人は下に降りて冷蔵庫を開けると、春香は遠山に冷えたお茶を渡した。
自分もペットボトルを開けてお茶をゴクゴクと飲むと、寒気も熱も去ったせいか、少しだけ体が軽くなった気がした。
「遠山くん、もう大丈夫だから。」
春香がそう言うと、遠山は壁時計を見た。
「昼食べたら帰るよ。」
春香も壁時計を見て、
「そうだね、お昼だね。一緒に食べようか。」
そう言って、台所へ向かった。
「今朝、お父さんがお弁当を作ってくれたんだけど、良かったら食べて。」
春香は遠山にお弁当を渡した。
「じゃあ、俺の弁当を多岐にやるよ。」
遠山は自分の弁当を春香に渡した。
「ごめん、こんなに食べられないよ。」
春香は自分の弁当よりも少し大きくて重い弁当を机に置いた。
「そうだろうな。女子には多すぎるか。」
「やっぱり、私のは私が食べるよ。」
春香はそう言って遠山の持っている自分のお弁当に手を伸ばした。
「これも俺が食べる。」
遠山が言った。
「じゃあ、私は何を食べればいい?」
春香は遠山を見た。
「待ってろ。すぐに戻ってくるから。」
遠山は上着を着ると、あっという間に外へ出ていった。1人になった春香は、遠山が戻って来ない不安に襲われ、急に鼓動が速くなった。
当たり前に続いていくと思った今日が、急に夢だったのかと落胆に変わる。そんな朝を迎えた事のある人間は、目の前の真実さえ、怖くてしっかり見つめる事ができない。
玄関が開く音がして、遠山がコンビニの袋を持って春香の前にやって来た。
「遠山くん、なんで勝手に行っちゃうの?」
春香は遠山の胸を叩いた。
「なんでって、すぐそこのコンビニに行っただけだろう。」
「だから、なんで!」
遠山は自分の胸を叩き続ける春香の腕を掴んだ。
「多岐、どうしたんだよ。」
遠山の言葉に我に返った春香は、
「ごめん。」
そう言って俯いた。
「多岐。」
「なに?」
遠山は春香の頬に冷たいアイスのカップをくっつけた。
「冷たっ!」
春香が顔をしかめると、
「食べようか。」
そう言って食卓テーブルへ向かった。冷たいアイスが少し溶けるまで、春香は待っていた。
「食べないのか?」
「遠山くん、ずいぶん高級なアイス買ってきてくれたんだね。少し待たないと、スプーンが入らないよ。」
遠山はアイスのカップを包んでいる春香の手を触った。
「多岐の熱ですぐに溶けるって。」
春香は俯くと、
「あの日、お母さんに怒られてね。」
そう言った。
「ん?」
「お弁当を学校に忘れたの。それで怒られて、コンビニに行ってくるって、出ていってそのまま…。」
遠山はもう一度、春香の手を触った。
「もう、いいぞ。早く食べろよ。」
「うん。」
春香はアイスを一口、口に入れた。
「多岐、自分のせいだって思ってるのか?」
「そうだよ、だってそうだから。」
「俺、そういう多岐が好きかも。」
遠山は春香をまっすぐに見つめている。
「はぁ?ふざけないでよ。」
春香は遠山から目をそらした。
「アハハ、冗談だよ。多岐が少し笑うかと思って言ったのに、かえって怒られたわ。」
遠山はそう言って笑った。
俯いた春香の前髪のむこうで、涙が落ちているのが見えた。
「ごめん、ちょっとふざけ過ぎた。悪かった。」
遠山はそう言って春香の顔を覗き込むと、
「悪いのは、私だから。」
春香はそう言って涙を拭った。遠山は何も言わず、またお弁当を食べ始めた。
アイスを食べ終え、
「遠山くん、ありがとう。美味しかった。」
春香はそう言って立ち上がると、少し目眩がして、ふらついた。遠山が食べ終えたお弁当箱を持って、台所へ向かった。
「俺が洗うから、多岐が拭けよ。」
「いいよ、そんな事しなくても。」
「それくらいやるよ。多岐の弁当は俺が食べたんだし。」
遠山はスポンジに泡をつけた。
「多岐が大学に行ったら、親父さんは1人になるのか?」
「そうだね。なるべくこの近くで探そうかなって思ってるけど。」
「そっか。それなら俺もそこに行こうかな。」
「遠山くんはやりたい事ってないの?」
「ないよ。だから好きな子の近くで、それを見つけようかって思ってる。」
「そ。」
春香は遠山が洗ったお弁当箱を丁寧に拭いていた。
「今のは泣かないのか?」
「何が?」
「俺、けっこう真剣だけど。」
「何の事?」
「鈍感だな。それでよくソフト部のキャプテンやってたな。」
「部活とは関係ないでしょう。だいたい何の話しかもわからないし。」
「多岐はなんでキャッチー選んだんだ?」
「だって、誰もやる人がいなかったから。」
「そっか、そういう理由か。」
「ねぇ、そんな話しをしてたっけ?」
遠山は春香に近づいた。
「風邪が治ったら、ちゃんと話すよ。」
そう言って春香が持っている遠山のお弁当箱を、鞄にしまった。
「早く元気になれよ。」
遠山は玄関に向かった。
「遠山くん。」
春香は遠山の後を追いかけると、
「今日はありがとう。今度、アイスおごるから。」
そう言って手を振った。
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