第2話 青いマフラー
昨夜から降り続いた雪が、膝の高さを越えた。
水分が多いカレーをかき混ぜながら、春香は涙が溢れてきた。
玄関前の雪かきを終えて、父が家に入ってくる。
「今日はカレーか?」
功は春香の作ったカレーの鍋を覗き込む。
「どうした?なんで泣く事なんてあるんだよ。」
「カレー失敗しちゃったから。」
春香はそう言って涙を拭った。
「カレーなんか失敗するって事はないだろう?材料切って、ルーを入れるだけでいいんだから。」
功の言葉に春香は涙が止まらなくなってくる。
「父さんはこれくらいの方が好きだけどな。」
自分に気を使っている父の言葉は、春香の心に溶けずに残った。
「お父さん、私、上手くできないよ。」
母が亡くなってから、父が必死で保とうとしている家族の関係は、自分の歪んだ性格のせいで、どこかぎこちない形になっている。
小さな事でも、何かにひどくあたりたくなる気持ちと、時を選ばないで流れ出てくる涙。それは母のいなくなった寂しさじゃなくて、自分が普通という日常を送る事ができなくなった現実を、恨む気持ちが纏わりついているのかもしれない。
父が一生懸命に頑張ろうとすればするほど、自分の気持ちがついていかない。いつまでも悲しみに浸っていてはいけないって事はわかっているけれど、こうして無理に笑っている父の笑顔が、かえって悔しさを助長させる。
暗闇の中に閉じ込められた事のある人間は、どんな太陽を見たって、また暗闇の中の思い出が蘇るんだから、また温めてほしいなんて、自分に差し込んできてくれる光りを待って、上を見上げない方が本当はいいに決まってる。
次の日のお昼休み。
和室で寝転んでいた春香の口に、柊子が自分のお弁当に入っていた卵焼きを入れた。
「少し食べなよ。私の作った卵焼き、甘くて美味しいよ。」
柊子は春香にそう言った。卵焼きが口に入った春香が起き上がって、お茶に手を伸ばした。
「甘過ぎた?」
「ううん。美味しい。柊子は自分でお弁当作ってるの?」
「そうだよ。うちの親は朝早いから。」
「そっか、柊子の家は旅館だったもんね。」
「一緒にご飯食べたのって、最後はいつだったかなぁ?」
柊子がそう言って考えていると、春香は買ってきたパンの袋を開けた。
「料理は誰に教えてもらったの?やっぱりお母さん?」
春香は一口頬張ると、柊子にそう聞いた。
「自分で覚えたんだよ。料理番組とか見てたらね、これならできそうだって思うようになって、それから。うちの台所なんて、あんまり出番がないからね。」
「ご飯はどうしてるの?」
「従業員と同じ賄いよ。旅館によっていろいろだろうけど、お母さんはほとんど料理をした事がない。」
「柊子はあとを継ぐんでしょう?」
「うん。私は一人っ子だし、それしか道がないもんね。大学まで進ませてもらったら、あとは決まったレールを走って行くだけ。大学だってそのための学校を選ぶしかないんだよ。だから春香が羨ましいよ。」
春香はパンをお茶で流し込むと、また寝転んだ。
「春香、パン食べないの?」
「いらない。もう喉に通っていかない。」
柊子はパンを袋にしまうと、
「あとで食べなよ。辛いのはわかるけど。」
そう言って春香に残りのパンを渡した。
夕方。
担任が春香を職員室に呼び出した。
「この前、学校推薦の校内選考があってな。多岐とA組の松下のどちらを推薦にするか悩んだんだけど、残念ながら、松下に決まったから。」
何も言わず下をむいた春香に、
「いろいろ大変なのはわかるけど、こればっかりは家庭の事情なんて関係ないからな。どうしても教育大に入りたいなら、試験で頑張るしかないな。正直、ちょっと厳しい状況だけどさ。」
担任の言葉を飲み込んだ春香は、玄関に向かった。朝の雪がついてまだ濡れている靴に履き替えると、
「多岐。」
誰かが自分の名前を呼んだ。周りを見渡すと、遠山がこっちを見て立っていた。
春香は鞄を持つと、玄関の重い扉を開けた。
「ちょっと待てよ。」
遠山が春香のあとをついてきた。
「さっき、職員室に呼ばれてたけど、何?」
「進路の事でちょっと。」
「多岐は教育大に行くんだろう?」
「ううん。違う。」
「だって、推薦をもらえるって聞いてたから。」
「それは別の人。」
「じゃあ、多岐はどこへ行くんだよ。」
「まだわからない。」
バス停に着くと、春香は時刻表を見た。たった今、バスが行ってしまったのか。自分の家の前までのバスはあと30分こないけど、途中までのバスなら、あと10分ほどでやってくる。どちらに乗っても家に着くのは同じ頃。それなら、先にやってくるバスに乗ってしまおうか。
「ラインしたのに、ぜんぜん既読にならないから、心配してるんだ。」
自分が乗って帰るバスの事を考えていた春香に、遠山が言った。
「いろいろあったから、ごめん。」
「そっか、大変なんだよな。」
「うん、まぁ。」
「家の事は多岐がやってるのか?」
「そう。あんまり上手くできないけど。」
「なあ。日曜日、少し時間ある?」
ちょうどバスの明かりが見える。
「ないよ。これから勉強しないと、本当にヤバいからね。」
春香はそう言って、バスに乗り込んだ。
混んでいるバスの中で、青いマフラーに顔を埋めた春香が手すりにつかまって立っているのがわかる。
バスの窓からこっちを見ている自分に気がつくと、春香は少しマフラーを下げて、口元を上げた。
小さく手を振った春香の青い手袋が、遠山の目に焼きついた。
父が帰ってきた。
「今日は鍋か。」
「これなら失敗しないからね。」
春香はそう言うと、
「休みの日は父さんが作るから、」
父が言った。
「お父さん、進路の事なんだけど、教育大の推薦はダメだったの。もう一つランクを下げて、別の大学の試験を受けようかな。」
「仕方ないな。」
父はそれだけだった。
部屋に戻り、半ズボンのパジャマからのぞく膝かぶは、あれだけ色が変わっていたのが嘘の様にキレイになっていた。
お母さんが全部持って行ってくれたのかな。
春香はそう思って膝かぶを撫でた。
携帯がなる。
「起きてたのか?」
「遠山くん?」
「これから勉強するのか?」
「うん。そうだね。」
「どこの大学にするんだよ。」
「それはもう少し、」
「俺、多岐と一緒にキャッチボールやりたいな。」
「そんな事もあったね。」
「球技大会の時、俺、初めてソフトボールやる事になってさ。多岐が教えてくれただろう。」
「遠山くんはサッカー部だもんね。」
「多岐。」
「何?」
「どこ受けるか決めたら教えろよ。」
「なんで?教えない。」
「いいだろう。教えろよ。」
「遠山くん、何かを選ぶのって難しい。」
春香はそう言うと、おやすみと言って電話を切った。
悲しいはずの出来事も、嬉しいはずの言葉も、底なしの暗闇には届かない。目を閉じても目を開けても同じ景色なら、ずっと目を閉じて眠っていようか。
春香は深いため息をつくと、仕方なく机に向かった。
次の日。
朝方まで勉強をしていたせいか、顔を洗うと少し目眩がした。
何かを焼いている様な匂いがして台所に行くと、父がお弁当を作っていた。
「春香、残したら絶対に許さないからな。」
父はそう言って笑った。
「お父さん、私がやるから。」
春香がそう言って菜箸を握ると、出来上がったおかずをお弁当箱の中に詰めていった。
「やっぱり母さんと同じだな。」
父が言った。
「おかずの詰め方なんて、似る?」
「似てる。そっくりだ。」
肩と肩がぶつかり合うほどのバスに揺られ、学校の玄関に着くと、バスに酔ったのか、今日は足元が浮いている感じがした。3階の自分の教室まで階段を上っていると、いつもは駆け足で上れるその一段も、足がついていかない。時々感じる目眩は、そのうち小さな光りがパチパチと飛んで見える。
生理痛がひどくお腹が痛い。ご飯を食べたくない日が続いたせいだろうか、体に力が入らない。立っているだけでも眠気が襲って来てくる。
大丈夫。
本当に心と体が悲鳴をあげているなら、生理だってこないはずなのに、悲劇のヒロインを気取っていても、案外自分って、鈍感な生き物なんだよ。
暗闇の中で下をむいてばかりいるようでも、実はちゃんと光りだって届いているんだし、誰かに甘えたりなんかしなくっても、しっかりと地面に立っていてみせる。
おかしいな。
どこまで階段を上っていたのかわからなくなった。
あとどれくらいで、教室が見えてくるんだろう。
「多岐!」
目が覚めると、春香はベッドに横になっていた。見覚えのあるカーテンが目の前で揺れると、ここは保健室だとすぐに気がついた。
「多岐さん気がついた?階段の一番上から落ちて、よくケガしなかったわね。」
澤田は多岐を見てそう言った。
「私、貧血ですか?生理だったから、すごくお腹が痛くて。」
「そうね。それにしても良かったね。遠山くんが支えてくれたから、ケガしないで済んだのよ。」
澤田は多岐のおでこを触った。
「少し熱があるようだから、今日は家に帰りなさい。」
「だけど…、」
春香がベッドから起き上がろうとすると、
「バスはすぐに来そう?」
「たぶん。」
「じゃあ、気を付けて帰ってね。」
澤田はそう言った。
保健室から出て玄関までくると、
「多岐さんでしょう?」
誰かが後ろから声を掛けてきた。
体調が悪いせいか、歪んで見える目の前の女の子は、
「ごめんねぇ。私が推薦枠もらっちゃったから、そんなにショックだった?」
春香の耳にはそう聞こえた。
「別に。」
下駄箱から外靴を出すと、少しバランスが崩れた。
「大丈夫か?」
誰が支えてくれたおかげで、春香は転ばなくて済んだ。
「すみません。」
春香はその手の先を見つめると、遠山が立っていた。
「帰るのか?」
遠山は春香を心配そうに見ていた。
バス停に着く前に、春香は息が上がり、足を止めた。
「大丈夫か?」
遠山が声を掛けた。
「うん。ごめん。急がないとバスきちゃうから。遠山くん、いろいろありがとう。」
春香はそう言ってバス停に向かった。
ちょうどやって来たバスに乗り込むと、さっきまでの混み具合が嘘の様に、バスの中は空席が目立った。
春香は席に座ると、冷たいバスの窓に頭をつけた。
揺れている世界から逃げるように目を閉じる。
風邪薬、どこにあったかな?
降りるバス停が近くなり、春香は立ち上がった。
バスの扉が開いて、ゆっくり階段を降りた。
冷え切ったアスファルトに足をつけると、吸い込まていくように前にのめり込んだ。
「多岐、」
遠山は春香の体を支えた。
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