曇り空の太陽

@kuromoru320

第1話 曇り空の太陽

 雪が降っているのに顔を出している間抜けな曇り空の太陽は、わずかに見える光りの中に、小さな雪が舞って見えた。一瞬、もうすぐ青い空に会えるのかと勘違いした心は、足元の氷の塊に気付くのが遅れた。


 つま先から寒さが積もっていく朝。

 校門の前で転んだ多岐春香たきはるかは、氷の地面にぶつけた膝を撫でていた。

「春香、また転んだの?今年に入って何回目?それでもソフト部の部長だったの?」 

「部長と転ぶのは関係ないじゃん。」

 春香は友人の夏河柊子なつかわしゅうこの手を掴んで立ち上がろうとした。

「ちょっと春香、私を利用して立つのはやめて。」

 柊子はそう言いながらも、ふらついている春香の体を支えると、ゆっくり氷の上に春香を立ち上がらせた。

「雪のせいで下に氷があるのに気が付かなったよ。」

 春香はそう言うと制服についた雪を払い除けた。

「落ちてるぞ。」

 後ろを振り向くと、隣りのクラスの遠山秋斗とおやまあきとが、春香の鞄についていた猫のキーホルダーを手に持っていた。

「あっ、どうも…。」

 春香はそれを俯いて受け取ると、遠山は友人達との学校の玄関に向かっていった。

「春香、寒いから早く行こう。」  

 柊子に促され、春香も生徒がごった返す玄関へ向かう。 

 

 お昼休み。

 華道部が使っている和室で、お弁当を広げていた春香と柊子は、食べ終えて畳の上に寝転んでいた。

「柊子が華道部の部長で本当に良かったぁ。」

 春香はそう言って起き上がると、スカートをめくり上げタイツを下ろした。

「うわ~、痛そう。」

 転んで氷に顔をつけた膝かぶは、青くなり所々赤に近い紫色が広がっている。

「保健室に行って湿布もらってきたら?」

 柊子は心配そうに春香の膝を眺めている。

「うん。そうする。」

 春香はタイツを上げて立ち上がった。

「春香さぁ、一応女子なんだし、もっと可愛らしくしたら?」

「何が?」  

 柊子はそう言ったが、春香は構わずタイツの寄りを直した。


 保健室に入ると消毒液の匂いと、生暖かい空気が春香を包んだ。

「澤田先生、湿布ください。」

 春香はそう言って診察台の前に立った。

「あら、どうしたの?」

 ここの高校へきてから10年目になるベテラン教師の澤田は、立っている春香を診察台へ座らせた。

「転んで膝をぶつけたんです。」

 春香が言う。

「どっちの膝?」

「左足。」

「どれどれちょっと見せて。」

 澤田は診察台の横のカーテンを閉めると、春香に膝を見せるようにタイツを触った。春香が診察台に座ったままタイツを下ろそうとすると、

「多岐さん、ずいぶんと横着ね。ちゃんと立ち上がって脱ぎなさい。」

 澤田は母の様な口調で言った。

「はい。」

 春香は立ち上がってタイツを下ろすと、青くなっている膝を見た澤田は、

「ありゃー、これはひどい。」

 そう言って湿布を取りにカーテンの外へ出ていった。

 春香を診察台の上に残し、澤田が湿布を探していると、保健室の電話が急になった。澤田は電話を取り、話し始めた。カーテンの中では春香がその電話が終わるのを待っている。

「先生、絆創膏くれよ。」

 保健室に入ってきたと同時に聞こえた声は、閉まっていた診察台のカーテン勢い良く開けた。

 タイツを下ろして待っていた春香と一瞬目が合うと、

「あっ、ごめん。」

 声の主はすぐにカーテンを閉め、そのまま保健室を出ていった。

 澤田が電話を終えて春香の所へ戻ってきた。

「お待たせしちゃってごめんね。さっき来たのは遠山くんだった?なんだかいつも忙しくしてる子だよね。」

 澤田はそう言うと春香の膝に湿布を貼った。

「冷たっ!」

 春香はそう言って顔をしかめた。

「一体どうやって転んだらこうなるの?」

 澤田は笑って、湿布をはがしたフィルムを手の中で丸めた。

「気を付けてよ。多岐さんは受験生なんでしょう?」

「そうですけど…。」

「こんな事言ったら御法度だけど、教育大の学校推薦、先生達はA組の松下さんと多岐さんのどちらにするか決めかねているみたいね。松下さんはよくここへ来て、そんな事を言っているから。」  

 澤田はそう言うと、診察台の周りを覆っていたカーテンを開けた。

「あの子は弓道部の部長だったわよね。責任感が強くて、芯のしっかりしたタイプなんだけど、この仕事ってどうなのかな。」

「先生は元看護師でしたっけ?」

「そうよ。交代のある仕事に疲れて、教員の道に進んだんだけど、養護教諭って楽そうに見えて、いろいろ悩みが多いのよ。松下さんはそういうの、少し苦手そうだからね。きっと悩むだろうなって心配してるの。」

「私、松下さんと話した事がないからよくわからないです。学校推薦の話しも、ぜんぜん知りませんでした。」

 春香はそう言ってタイツを上げた。

「あっ、ごめん。そう言えば丸見えだったわよね。」

「別にいいですよ。誰もいないですから。」

 春香はそう言ったが、さっき遠山がカーテンを開けて入ってきた時、タイツを下ろした姿を見られていたのではないかと、急に恥ずかしくなった。

「そうよね、余計な事言ってしまったわね。この話しは忘れて。それにしてもよく破れなかったわね、そのタイツ。」

 澤田は春香の膝を見つめた。

「上手に転んだんですよ。だんだんコツがわかってきましたから。」

 春香はそう言った自分がとても馬鹿らしかった。上手に転ぶって何?上手に歩いていないから、転んでしまうのに。

 

 放課後。

 バス停に立っていると、遠山がやって来た。

「さっき、ごめんな。中に人がいるって気が付かなかったから。」

 遠山は春香にそう言った。

「うん。別に…。」

 春香は遠山とは目を合わせず、青いマフラーに顔を埋めた。

「ずいぶん派手に転んだんだな。」

「やっぱり見たの?」

 春香は遠山の顔を見た。遠山は丸くて真っ黒な瞳を少し細めて、春香の顔を見ていた。

「転んだところは見てないよ。」

「違う、そうじゃなくて…。」

「膝、すごい色してたな。」

「もう、いやらしい。」

 春香がそう言って遠山から目をそらすと、

「仕方ないだろう、見えてしまったんだから。」

 遠山は照れを隠すように、春香の右腕に軽く拳をあてた。 

「もう!ここも青くなったら、どうするの!」

 怒っている春香を見て、遠山は笑った。

「連絡先、教えろよ。歩き方の相談に乗るからさ。」

「教えない。」 

「早く。バスきちゃうだろう。」

 遠山は携帯を出して待っている。

 春香は急かさせるように携帯を出すと、渋々連絡先を交換した。

 ぼんやりしたバスの明かりが近づいてくると、明かりに吸い寄せられて小さな雪が待っているのがわかる。

「じゃあね。」

 春香はバスに乗り込んだ。混み合ったバスの中では、自分の立ち位置を見つけるのに必死だった。揺れても人にぶつからないように足の裏に力を込めて立っていると、転んで青くなっている膝かぶが痛んだ。

 バスの窓から見える、青いマフラーに顔を埋めた春香の姿を、遠山は目で追った。


 幼い頃からよく要領がいいと言われた。誰からも手を差し伸べなくても、大抵の事は自分1人でやってこれた。勉強も運動も、それほど苦労しなくても、平均の少し上に印がつくと、そこから先は望むことをやめた。

 生きていくのは、案外楽なもん。

 普通よりちょっと上か下かを受け入れてしまったら、夢を見るなんて、自分には関係のない事だから。


「春香、お弁当箱は?」

 夕食を食べていると、母が聞いてきた。

「あっ、学校に忘れた。」

 春香が反省する気持ちがない事に腹が立った母の《あや子》は、腰に手を当てると大きなため息をついた。

「明日は自分でパンでも買ってね。」

 あや子は投げやりにそう言った。

「え~、おにぎりでもいいから作ってよ。購買でパン買うの、大変なんだよ。」

「だったら自分で作りなさい。」

「お母さん、ずいぶん冷たいね。」

「こんなにイライラさせるのは、春香のせいでしょう!」

 母はそう言って財布を手に取った。

「どこ行くの?」

「ちょっと、コンビニまで。牛乳がないから買っててくる。」

「私は牛乳なんていらないよ。」

「春香がイライラさせるから、私が飲むのよ。」

 母は雪が降る中、いつもパートへ行く時と同じ、軽自動車で出掛けて行った。


 父のいさむは、市役所の部長という役職まで就いている。

 母はパートになんて行かなくてもいいはずなのに、同級生の園長から頼まれて、人手不足の保育園で保育士を続けていた。長年勤めていても正職員にならないのは、母親は家庭の事を優先するように、父と結婚してからの約束だったようだ。

 3つ上の兄は、国立大学の法学部に進み、両親の期待を背負っている。

 絵に描いた様な家族と、何不自由ない日常の中で暮らしていると、たとえ曇り空が続いても、太陽はいつも空に浮かんでいる事を、信じて疑わなかった。

 

 残業を終えて帰ってきた父が、味噌汁の入った鍋を温めていた。

 お風呂から出てきた春香が珍しい功の姿を見て、

「お母さんは?」

 そう聞いた。

「今日は保育士達との集まりでもあったのか?」

 功は春香を見て、お椀を取ってほしいと合図をした。

「コンビニへ行くって言ってたけど…。」

 春香は時計を見ると、午後9時を回っていた。

「お母さん、ここから出ていって2時間も経ってる。」

 春香は功にそう言うと、母の携帯に電話を掛けた。

 何度鳴らしても、母からの返事はない。

 お母さん、どこへ行ったの?

 突然、家の電話がなった。

 父がその電話に出ると、急に顔色が変わり、春香の方を見た。


「母さん、交通事故に遭って死んだって。」

 

 冬の初めに起きた突然の出来事は、変わらない日常を奪っていくだけではなく、重機で破壊された雪像の様に、心に留めた思い出も、完成された絵の様な輝いて光景も、あっという間に壊れてしまった。

 これから少しづつ暖かい春がやってくるはずなのに、足元の雪は氷に変わり、何もかもを埋め尽くす寒さがやってくるような感覚を覚える。曇り空にあると信じていた太陽は、本当は見えなかっただけでなく、初めから光りなんて届かない存在だったんだと、春香は絶望した。


 全部、自分のせいだ。

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