-3- 疑惑の三々九度

 火焚太蝋と火縄八重の祝言が内々に執り行なわれた。

 出席者は火焚当主と八重の両親のみ。

 火蝶の本家長男の祝言とは思えないほど質素であった。

 火焚家に用意された白無垢を身に纏い、八重は手元に視線を落とし、物思いに耽る。


(この白無垢も、本当なら姉様が着ていたんだわ……)


 巫女となった姉の花嫁姿を想像し、八重は切なく、申し訳ない気持ちになって目の縁に涙を浮かべた。

 姉の千重と太蝋の祝言だったら、出席者で部屋が埋まっていただろうに。

 人柄も、能力も、人望に至るまで千重と違いすぎる現実を突きつけられるような祝言に胸が詰まる。

 それすらも駄目な事のように感じてしまう。


 ちらりと錦帽子の隙間から右隣を覗くと太蝋の膝下が見えた。

 冠婚葬祭に於いて軍人が着用する儀礼服を完璧に着こなし、堂々と前を見据えている事が分かる。

 互いに顔を見合わせられない錦帽子の存在が、今の八重には防波堤のように心強く思えた。

 萎縮し、花嫁に相応しくない暗い表情を浮かべる自分を見られずに済む。


 太蝋の手に盃が渡され、火焚家が神主を務めている神社の巫女が、神酒を注いだ。

 太蝋が神酒を口した後、八重に手渡される。

 小さい盃に注がれた神酒の水面には、似合わない赤い口紅を付けた辛気臭い自分の顔が映っていて、思わず溜息が漏れた。


 祝言の儀礼に則り、盃を口元で傾けると神酒が舌と喉を刺激する。

 喉が焼けるような感覚に咳き込みそうになるのを必死に堪え、八重は太蝋に盃を返した。

 錦帽子の隙間から太蝋がぐっと盃を傾ける仕草が見えて、また一つ劣等感を覚える。


 次なる盃を巫女から手渡され、八重は手元の盃を見ながら、先ほどの酒の辛さを残り三度も味わわなければならない事に気が滅入った。

 先ほどよりも一回り大きい盃に注がれた神酒を口に含んだ瞬間、眉間に皺が寄る。

 あと二回の辛抱だと唱えながら、八重は太蝋に盃を手渡す。


(水を飲みたい……)


 口の中に残る酒の味を洗い流したい。

 初めて口にする酒に悪酔いしそうで、八重は口元を拭う素振りを見せながら、漏れでそうになる吐息を飲み込んだ。


 太蝋から戻ってきた盃を受け取り、残っている酒を見て気が重くなる。

 八重が残した量と変わっていないように見える。

 しかし、先ほどの太蝋と同じように三口目の酒は八重が全て飲み干さなければならない。


 一気に飲み込んでしまおう。そう覚悟を決め、八重は盃に口を付けた。

 くっと顎を上げると、酒がするすると口に入ってくる。慣れない辛味に涙が出そうになった。


 何とか堪える事に成功し、残った酒も全て飲み切ると八重は巫女に盃を返した。

 あと一回、酒に耐えれば終わる。


 ぽわぽわと顔に熱が灯り、錦帽子を被っているのも辛くなってきた。

 太蝋の手元に一際大きい盃が渡され、神酒が注がれているのを見て八重は心の中で呟く。


(あぁ……そんなに注がないで。もうこれ以上、飲みたくない)


 八重の願いが巫女に通じる筈もなく、盃にはなみなみと神酒が注がれてしまった。

 太蝋が少し飲んだ後、八重に手渡され、注がれた量とそれほど変わらないように見える酒の水面に泣きそうな女の顔が映る。

 何処にも幸せそうな様子は見られない。


(姉様の代わり。私は姉様の代わり。姉様の代わりに、私が応えないと。お務めを果たさないと)


 本来この席に座る筈だった姉の代わりを果たす事こそ、残された自分の務め。

 そう言い聞かせながら八重は恐る恐る盃に口を付け、ぐいっと傾けた。


(……あれ?)


 口の中を満たしたのは辛味ではなかった。それどころか何の味もしない。

 酒に味覚を奪われてしまったのかと一瞬思ったが、こくりと飲み込むと同時に正体が分かった。

 喉を襲う熱さが感じられない。


(これ……水だ……)


 姿勢を整え、八重は盃に残っている透明な液体をじっと見つめる。

 てっきり、舌も喉も焼くような辛味が襲ってくると思っていただけに拍子抜けしてしまった。

 すると、右側から白手袋を付けた太蝋の手が伸びてくる。


「あ……」


 八重が渡すより先に太蝋に盃を奪われてしまった。

 何故、水が入っていたのか分からず、八重は思わず太蝋を見上げた。

 白い蝋燭が赤い盃に入った水をごくごくと飲み干していく。


(そこが口なのね……)


 普通の人と変わらぬ位置で盃を傾けている姿に、八重はどうでも良い事を思った。


 全て飲み切られた盃を太蝋が巫女へ返す姿を茫然と見ている内に、親子固めの盃が交わされ、太蝋の口から誓いの言葉と結びの挨拶がなされ、祝言は幕を閉じていた。


 祝言の後に設けられた宴の席で自身の両親と当主が和気藹々と話す姿を見ている間も、右隣に座っている太蝋は一言も声を掛けてこない。夫婦になったのに実感が湧かない。


(どうして水だったの?)


 そればかりが気になってしまい、八重は配膳された煌びやかな食事に手をつけられなかった。

 太蝋は黙って食事を摂っており、当主や八重の父に話しかけられた時だけ声を発す。


 遠い世界の出来事を見ているかのような感覚になりながら、八重は三の盃が水だった理由にようやっと思い至った。


(やっぱり、私は望まれてないんだわ。ちゃんとした三々九度を交わすだけの価値が私には無いから……)


 義母となる当主も、夫となった太蝋も、心底では八重を歓迎していない。

 その思いが三の盃に現れていたのだろう。


 千重の優秀さを思えば自分は代わりにもなれない。

 分かっていた筈なのに改めて現実を突き付けられた事に酷く悲しくなった。


(……せめて。せめて、子供は産まないと。お務めを果たさないと)


 自分に望まれているのは後継ぎを産む事。

 優秀であった千重と同じ血を継ぐ者として、役割を果たさなければ。次代の火蝶を導く存在を残さなければ。


(じゃないと、役立たずのままだわ)


 そう思いながら八重は袖の下で拳を握った。

 自分に望まれているのは、きっと子供を産む事だけなのだ。


 夫婦の未来と子孫繁栄を望む三の盃が、水で交わされたのだとしても――


 

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