-4- 蜜月の始まりは苦く
夫となった男の部屋に並べられた二組の布団を見て、八重は身の置き場に困った。
部屋の主である太蝋は、まだ戻ってきていない。
火焚家の使用人に案内されて通されたとは言え、太蝋が居ない状況で何処に腰を落ち着けて良いのか分からなかった。
暫く、入ってきた襖の前で佇み考えた末に、一先ず枕元で正座して太蝋が戻ってくるのを待つ事にした。
確か、夫より先に寝るのは駄目だった筈だ。
何より祝言を上げたこの日の夜は、二人にとって初夜である。
妻となった自分が受け入れるべき務めが終わっていない。
(粗相が無いように出来るかしら……)
実家である火縄の家に仕えている使用人達や、家がある村の人間に至るまで、八重に好意的な態度を示した他人は居なかった。
それ即ち、異性との交際経験がない事を意味する。
ずっと、お蚕様の世話と生糸を紡ぐ日々を送ってきていたのだ。
尤も、千重が火蝶の巫女となってから直ぐに、太蝋の婚約者と言う立場になった身の上では、火遊びなど出来る筈もない。
また八重にそんな勇気は無かった。他人に蔑まれる日々を送っていた八重には。
せめて、太蝋の機嫌を損ねる事なく、初夜が無事に終われば良い。
そんな風に考えながら、八重は何度も襟元を正した。
いつ太蝋が戻ってきて、今の姿を見られるか分からない緊張感を覚えながら。
八重が部屋に入って落ち着いて十数分が経過した頃。
部屋の襖が音もなく開けられた。開けて部屋に入ってきたのは、太蝋だ。
近付いてくる足音も聞こえなかったせいで、八重は大層驚いて肩を揺らして息を飲む。
そんな八重を一瞥してから、太蝋は襖側に敷かれた布団の前に座り込み、徐に掛け布団を捲って、そのまま布団へと横たわった。
そして、八重に背を向けるように寝転がって言う。
「八重も寝なさい」
「え」
「おやすみ」
そう言った太蝋の頭の火は小さく揺らめいている。
元々表情が分からない異形頭の男だが、平坦な声で寝るように告げられると余計に肝が冷えた。
既に何か粗相をしてしまったのかもしれない。そんな焦りから八重は太蝋に話しかけようと口を開く。
「たっ……」
太蝋の名前を呼ぼうとした寸前、八重は口元を手で覆った。
「太蝋さん」なんて呼び方をしてはいけないかもしれない。
そう考え、八重は太蝋への呼び方を変えて、再び話し掛けた。
「だ、旦那様……、きょ、今日は、初夜……です」
「あぁ、そうだね」
八重が意を決して口にした言葉に太蝋は平坦な声で返した。
こちらを見る事なく背を向けている太蝋の姿に、ますます八重の焦りが募る。
「そ、の……こ、子作り、は……っ」
それこそが自分の役目なのだから、太蝋に言われるまま、のうのうと寝る訳にはいかない。
妻としての役目を果たさなければ、誰に何を言われるか分かったものではない。
ただでさえ、歓迎されていない家の中で肩身の狭い思いをしなければならなくなる。
しかし、太蝋の返事は無情なものだった。
「今日じゃなくても良いだろう」
その言葉が八重の胸を鋭く刺した。太蝋は八重との子作り……まぐわいを望んでいない。
歓迎されていないと分かってはいたが、拒絶された事実が胸を抉ってくる。
居た堪れなくて、この場から逃げたい思いでいっぱいになった。
八重は膝の上で拳を握りしめながら、震える声で言う。
「お、お務めを……果たさせて、ください……」
それに対し、太蝋は少しの間を置いてから答えた。
「必要ない」
ガンと頭を殴られたような衝撃が八重に走る。恥を忍んで懇願したのに二度目の拒絶を受けてしまった。
肌を重ねたくないのだと突き付けられた様で、目の前が真っ白に染まって上手く思考出来なくなる。
ただ八重の頭の中に浮かんでいるのは、務めを果たす事。
それが叶わなかった時の周囲の目を想像するだけで身が竦む。
二度も拒絶された以上、太蝋の言う通りに寝てしまうのが正しい事なのだろう。
だが、明日以降の事を思うと、眠ってしまおうと言う気にもなれない。
一か八か。
八重は立ち上がった。それから、太蝋の視界に映る所に正座する。
そして。
「だ……旦那様……っ」
目を閉じていた太蝋の耳に、切羽詰まった八重の声が聞こえた。
畳を歩く足音や、空気の流れから顔の前に八重が座った事が分かっていたが、目を閉じていて八重の行動の全てを太蝋は見ていなかった。
太蝋は目を開けて、目の前に座っている八重を見上げた。
自身の頭の炎に照らされたのは、八重の白い肌。
普段の格好では分からなかった豊満な胸。
目を奪われる桃色の突起が、空気に晒されている姿に太蝋は息を飲んだ。
頭の火が大きく揺らめく。
消極的な態度だった八重が自ら寝巻きを脱いで誘惑してくるとは思わず、太蝋は密かに動揺した。
だが、その誘惑に乗る事は出来ない。
そう思った太蝋は冷静を装いながら、やめるように言おうと口を開いた。
「八重……――」
しかし、太蝋は三度目の拒否を口に出来なかった。
真っ赤に染まった頬や、目の縁に溜まっている涙が見えてしまったから。
強い羞恥心に見舞われながらも八重は務めを果たす為に肌を曝け出したのだ。
小刻みに震える肩や唇から、拒絶される事への恐怖も伝わってくる。
涙で潤んだ瞳が泳ぐ姿や、緊張で丸まった背筋。
絹のような白い肌に、柔らかそうな胸。
太蝋は起き上がり、八重の前で胡座をかいた。
そして、八重の両乳を持ち上げるように手を添える。
「あ……っ」
手袋をはめたままの太蝋の手が、自分の胸を触り始めた光景を見て、八重は頭が沸騰しそうなほどの羞恥に見舞われた。
感触を確かめるような手付きがこそばゆく感じて息が浅くなる。
羞恥で溢れた涙が、瞬きと共に胸へ落ちていく。
手触りの良い手袋で触られる感覚。
手袋の下から現れた無骨な大きい手。
明らかに人よりも高い体温。
寝巻きに隠された大きな身体に組み伏せられた。
かと思いきや溢れる涙を拭われる事も。
事が進む度に強風に煽られたかのように太蝋の頭の炎は大きく揺れた。
(奇麗……)
八重は太蝋の炎に魅入られた。
まるで光に引き寄せられる羽虫の如く。
火に身を焦がされる蝶の如く。
片翅しかない背中の痣が熱を宿した気がしたのだ。
太蝋の炎によって、本来の熱を取り戻したかのような錯覚すら覚える。
八重が炎に魅入っていると一瞬、ぼわっと勢いが増した。
それから少しして太蝋の口から〝終わり〟を告げられた。
何も答えられない状態の八重を見た後、太蝋は徐に立ち上がった。
箪笥から手拭いを取り出して八重の元に戻ってきて言う。
「自分で拭けるか?」
「……あ。……はい……」
差し出された手拭いを受け取ると、太蝋は八重に背を向けて、もう一枚持ってきていた手拭いを使い、身支度を整え始めた。
その姿を横目に八重も涙や汗などの体液を拭っていく。
手拭いに付着した僅かな血を見て、八重は改めて破瓜したのだと実感した。手拭いに移った体液はそれだけ。
諸々の体液を拭き取り終わり、身支度を整えていると太蝋が背を向けたまま口を開いた。
「私は、
先ほどまでの熱を一切感じさせない平坦な声。
頭の炎も随分と小さくなっている。
その姿に少しの寂しさを覚えながら、八重は小さな声で応えた。
「……はい……承知しました……」
「……。好きなように過ごしなさい」
太蝋は八重に隣の布団に移るように言った後、事に及んだ布団に寝転がった。
八重に背を向けて寝転がっている姿は数十分前に見たものと同じだ。
八重も今度は大人しく布団の中に潜り込んだ。
太蝋に背を向ける形で寝転がり、身体に残る痛みや違和感に不安が募る。
もやもやとしながら八重は太蝋との情事を思い返す。
自ら肌を曝け出した事から始まり、未知の感覚を太蝋に与えられ続け、破瓜の痛みと苦しみに耐える時間だった。
こんな事を身籠るまで続けなければならないのか。
結婚したばかりで夫が仕事でいなくなる事に少しホッとしてしまうのが申し訳なく思えてくる。
うとうとと眠気に誘われ瞼を閉じた瞬間、八重の脳裏に情事中の太蝋の姿が浮かんだ。
(……あ)
情事中は太蝋の頭の炎の揺らめきに気を取られていて、気が付けなかった。
(旦那様……手袋以外、脱がれなかった……)
寝巻きの下に着込んだ、とっくり襟と下履き。手袋だけでなく足袋まで完備していて、目撃した肌は必要最低限だった。
腰紐を結んだまま乱れた寝巻き姿で、事に及んだ自分の様子を客観視すると酷く滑稽に思えてくる。
八重は恥ずかしさから逃げるように頭から布団を被り直す。
迫り上がってくる将来の不安に、じわじわと涙が浮かんでくる。
(駄目。まだ、始まったばかりなんだから……)
不安を押し殺すように八重は布団の中で身を丸めた。
閉じた目の縁から涙が溢れてきても、隣で寝ている太蝋に泣いている事を気付かれる訳にはいかない。
旦那様である太蝋を失望させたらいけない。
必ず務めを果たさなければ。
そう自分を言い聞かせながら、八重は微睡みの中へ落ちていった。
生糸を手繰る夢を見れる事を願って――
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