金木 - Ⅲ
離れから斜陽館までは数分の道のりだが、母も私もひどい方向音痴で、どこだどこだ、と言いながら地図を回した。地図を読むとき、いちばんやってはいけないことというけれど、回さずにどう読むのか。方向は合っているはずだ。風景と比べながら、よろよろ歩く。ふと見あげると、立派な赤い屋根が眼に入った。もう着いていたのである。
斜陽館の向かいには、道の駅があった。敷地に少しお邪魔して、写真を撮った。入口を画角の中心に収めても、家全体を写すことはできない。レンガ造りの外壁が見きれてしまう。携帯電話を縦に構え、右から左に動かして動画を撮った。
入口は両開きの扉で、うえに看板がかかっている。「国指定重要文化財 斜陽館」とある。太宰の実家は大豪邸、太宰の実家は大豪邸と、そればかり唱えてやってきたが、建物もかなり貴重なものらしい。現在価値に直すと、建築費だけで五億円という話だ。
受付でチケットを買い、先ほどと同じく、キャリーケースを預かってもらう。館内にはすでに、見学者の姿が多くあった。まとまって動くところを見るに、団体客のようだ。価値のある建物見学として、旅程に組みこまれているのだろう。
入って正面は土間で、どんつきが台所となっている。向こうまで、二〇メートルはありそうだ。左手には、土間と平行に、ひろい座敷が三部屋ならぶ。なぜ、こんなにも土間がひろいのだろう。案内板を見ると、津島家の農地を借りている農民たちが、米俵を置いていくためだそうだ。式台に腰かけて、靴を脱ぐ。私たちと入れちがいに、靴を履いて足早に出ていく人もいた。床は、やはり冷たい。
まずは、一階を見て歩く。土間もとい台所の周りは、幼い太宰がよく遊んだと書かれてある。たしかに、遊ぶのに差しつかえない広さだ。かまどの近くの板間にはつくりつけの棚があり、お膳など、食卓で使うものがしまってあった。
以下に、部屋の名前をならべてみる。台所のすぐ脇の座敷は「常居」、さらにその横の部屋は「茶の間」で、両方ともに囲炉裏がある。さらにその奥、つまりは入口にもっとも近い空間が「座敷」だ。上記の三部屋は、土間から直接あがることができる。三部屋の奥にもまた三部屋、和室があり、「茶の間」のうしろの部屋が「座敷」となっている。その隣が「仏間」だ。昼でもこうこうと陽が差す場所ではないのか、薄暗い部屋の壁ぎわで、金色のお釈迦さまが、ぼうっと浮かびあがっている。きれいというよりは、豪華すぎる気もした。
家族それぞれに割りあてるために部屋数が多いものと思っていたが、家族の部屋、使用人の部屋、客間とに分けられ、さらに客間のなかでも性質が異なるからだったのだ。家業に携わっていることもあり、私には、津島家の暮らしをなんとなく想像できる。津島家の斜陽館を「家」と考えると、間取りが複雑だし、部屋数もばかに多い。ただ、莫大な資産がある実業家が暮らす場所と考えてみると、客間が多くなるのは自然なことだ。住宅と本社を兼ねているからである。
私たちの「家」を訪れるのが、宅配便業者か友人か家族か近所の人くらいだとすると、津島家を訪れる人は、もっと多く、一家との関係もいろいろだったはずだ。私の些少な会社員経験から察するに、会社では、訪問客によって使う会議室を分ける場合もあろう。これを、いわゆる「家」の間取りでさばくことはできない。
津島家は貸金業も行っており、入口のすぐ脇に「金融執務室」という小さな銀行のような部屋もあった。カウンターはもちろん、応接セットもしつらえられている。金融に関する問合せはここで受けたらしい。
一階で最後に見たのは「文庫蔵」という蔵だ。太宰は蔵のまえの階段に座り、女中のたけに昔話を聴かせてもらうのが好きだった。たけは、幼い太宰を残して、ある日きゅうにいなくなってしまう。太宰には、嫁ぐことを伝えなかったのだ。『津軽』の終盤、たけを訪ねていくのだが、私は彼女の娘に出会う場面が大好きである。
[「ごめん下さい。ごめん下さい。」
「はい。」と奥から返事があって、十四、五の水兵服を着た女の子が顔を出した。私は、その子の顔によって、たけの顔をはっきり思い出した。もはや遠慮をせず、土間の奥のその子のそばまで寄って行って、
「金木の津島です。」と名乗った。
少女は、あ、と言って笑った。]
蔵は現在、津島家の調度品や直筆書簡などを展示する部屋となっている。太宰の小説には二重回しという衣服の名前がひんぱんに出てきて、いったいどんな服だろうと首をかしげていた。真黒くて重たそうなマントがマネキンに着せてあった。それが、二重回しだった。太宰は当時の男性にしては身長が高かったというが、実際の着用写真を見るかぎり、身幅はだぶだぶだったのではないかと思う。
直筆の展示物には井伏鱒二のものもあった。丸っこくて可愛らしい字だ。文豪の手紙や原稿を見るにつけ、自分の字の汚さが、いつも恥ずかしい。書きたい気持ちに手が追いつかず、変に焦って汚くなる。
順路に従い、階段で二階にあがる。踊り場から二手に分かれており、度肝を抜かれた。二手に分かれる階段というと、ホテルのロビーで見たことがあるくらいだ。ちなみに、階段を含め、二階は洋風の意匠となっている。うち一部屋は洋間だ。
[中学時代の暑中休暇には、金木の生家に帰っても、二階の洋室の長椅子に寝ころび、サイダーをがぶがぶラッパ飲みしながら、兄たちの蔵書を手当り次第に読み散らして暮し、どこへも旅行に出なかった]
私の母は、ぶったまげた。あの時代の青森の田舎で、サイダーなんかおいそれと買えるのか、というのだ。しかも、洋間に長椅子ときている。がぶ飲みというから、家に一本だけではなさそうだ。しらべたところ、アサヒ飲料のホームページに、三ツ矢サイダーの歴史をまとめたページを見つけた。太宰が中学生だった一九二〇年代の記述があったため、以下に引用する。
[「銀河鉄道の夜」などで知られる作家・宮沢賢治も「三ツ矢サイダー」を愛するひとりでした。当時、天ぷらそば15銭に対してサイダーは1本23銭と、とても高級な飲み物。教師をしていた頃の賢治は、給料日になると、ときには奮発して大好物の天ぷらそばと「三ツ矢サイダー」を教え子たちのために注文したそうです。子供には手の届かないサイダーをふるまっていたのだとか。]
奇しくも、東北地方は岩手県の文豪、宮沢賢治の逸話だ。賢治にとってのハレの日の飲みものを、中学生の太宰は、ふだんから口にしていた。天ぷらそばは、現在のチェーン店では八〇〇円、少しいい店だと一五〇〇円ほどだ。当時のサイダーを現在の価値になおすと、一二〇〇円から二〇〇〇円ということになる。同じ飲みもので考えるなら、都内にあるホテルのレストランでは、ソフトドリンクでも一〇〇〇円はとる。人件費などを鑑みると、当時のサイダーは、よほど高級品である。
ちなみに、展示室には長椅子がちゃんと置いてある。あれがサイダーがぶ飲みの現場か、と思った。
太宰はこの家で生まれた最初の子どもだが、うえには十人ほど兄姉がいた。両親は不在にすることが多かった。やたらとひろくて、使用人もいて、人の行き来も多い家では、自宅といえども落ちつかないだろう。冬は大雪で、家で長い時間を過ごすより仕方がない。学校には、津島家の債務者や被雇用者の子もいた。津島家の子どもは、どんなにできが悪くても、小学校ではオール五をつけてもらえたという。もっとも、太宰だけは掛け値なしの秀才だったらしい。作品を見るかぎり、大人になった太宰も、津島家の子どもという境遇に苦しめられている。
館内を見おわるころには、波が引いたように、来館者もいなくなっていた。のんびり靴を履きかえた。預けていたキャリーバッグを受けとり忘れて出てしまい、あわてて引きかえした。
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