金木 - Ⅱ
金木駅を出ると、駅舎の壁に、「太宰治のふるさと」という木製の立派な看板がかけてあった。自殺未遂のあとの警察沙汰やらで、津島家当主の実兄が大変な迷惑をこうむったことから、地元では、読むのはもちろん、名前を聞くのもいやだという人もいたと聞く。道路を渡って駅舎の写真を撮り、斜陽館に向けて歩きだした。途中、太宰が戦中に疎開した離れがあった。はじめは斜陽館と廊下でひとつづきになっていたが、のちに一〇〇メートルほど曳家され、現在の位置になったという。
せっかくなので、見学することにした。受付と店舗を兼ねた小さなスペースが、離れの手前にくっつくかたちで、ひとつの建物になっている。出てきた男性にキャリーケースを預けると、下駄箱まで案内してくれた。靴下を履いた足で、冷たい床板を踏んだ。
「太宰は、お読みになったことありますか」
津軽訛りである。私たちはうなずいた。
「どれくらい、お読みになりました」
居心地の悪い間があいた。互いの手の内を読みあうような一瞬だったが、勝手にそう感じただけかもしれない。
「三分の一くらいでしょうか」
作品名を挙げるのが煩わしく、とっさに全集の進み具合を答えた。男性は、少し意外そうな表情を浮かべる。
「みなさん、『人間失格』とか『斜陽』でわかった気になって、やめてしまう方も多いんですけれど」
どう答えても、同じ言葉が返ってきた気がした。『人間失格』も『斜陽』も、そんなに好きではない。その二作で読むのをやめたと聞いたら、男性と同じように、もったいなく思うだろう。
近年になって見つかったという、十代のころの太宰が写った家族写真が展示してあった。夭折した兄弟たちと一緒に撮られたものだ。どれが太宰かわかるかと問われ、私は迷った。見た瞬間にわかってはいたものの、正解していいのだろうか。半端に詳しい人と思われたら、いやだなあ。私がまごついているあいだに、横にいた母が正解を答えた。左端の少年が太宰だ。
「津軽鉄道を敷いたのも、津島家なんです。おふたりが津軽鉄道に乗ってきたということは、すでに津島家の恩恵を受けてきた、というわけなんですねえ」
解説を加えつつ、男性は建物を案内した。太宰が原稿を書いたり、友人と会ったりしたという座敷の奥に、文机が置かれている。座りかたに癖があり、あぐらをかいた片膝を立てて、身を乗りだすようにして書いたという。腰痛もちの私からすれば、おそろしい話だ。
「あの机のまえに座ると、文章が上手くなるという話もありますよ」
私は笑った。男性は「ほんとうですよ」と念をおした。近づいて、眺めるだけにしておく。
東京でも、その後に移った山梨でも焼けだされ、家族を連れて青森に帰ってきた太宰は、久しぶりに津島家の人々と再会したらしい。疎開したいと伝えたときも、兄は意外にも快く、離れに住むことを了承してくれたという。
じっと立って話を聴いているうち、足の裏がどんどん冷たくなってきた。そろそろ、斜陽館に向かいたい。私の気持ちをよそに、男性は案内をつづける。あれこれと説明してくれたが、やはり、こういった場所では、話を聴いていられない。勝手に歩きまわりたくなる。弘前の下宿先同様、津島家の離れも鴨居が低い。太宰は頭を引っこめて、部屋を行き来したものだろうか。そんなことが、気になった。ついに、母に聴き役を任せて、庭を臨む廊下をぶらぶらした。奥の小部屋を覗いてみる。いわれがあったはずだが、不真面目な生徒は、何も覚えていない。さっきまでのくもり空が嘘のように、ガラス戸の向こうが明るくなってきた。座敷を舞台にした「親友交歓」という短編がおもしろいということだけ、なんとか覚えて帰ってきた。
この原稿を書いているあいだに、太宰の座りかたについて、ふと思いだしたことがある。林忠彦が撮った、バー「ルパン」にいる太宰の写真だ。はじめて見たとき、スツールに座るにしては、ずいぶんと窮屈な姿勢だと思った。格好をつけるために、わざとあんなふうに座ったのかしら。見るたびに不思議に思っていた。ひとつの謎が解けたような気がする。
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