弘前 - Ⅱ

 太宰治は弘前高等学校に通っていた。下宿先の親戚の家が「太宰治まなびの家」という名前で弘前市内に残っていて、無料で見学することができる。


 おおきな庭木が立ちはだかり、外からは、どんな家か窺いしれない。門をくぐり、引き戸に手をかける。建付が悪いのか、思いきり力を込めると、おおきな音を響かせながら、ゆっくりとひらいた。じっさいの人のおおきさに近い太宰のパネルが眼に飛びこんできた。ポスターでもパネルでも、人物がおおきく刷られたものは苦手だ。視線をそらして、左手に進んだ。三和土に敷かれたすのこのうえで靴を脱ぐ。天井から誰かの足音が聞こえ、やがて、音はすばやく階段をくだってきた。


「こんにちは」


 柔和な面立ちの男性が現れた。訛りはない。畳に立て膝をつき、見学について二、三の短い案内をした。アンケートをとっているといい、どこから来たのかと訊ねた。東京からだと母が答えた。三和土を挟んで左右に部屋がある。行き来するのに、いちいち靴を脱ぎ履きするのだろうか。私の父方は代々農家で、父が幼いころは土間に食卓があり、食事は靴を履いて食べたという。土間はいまでいう台所なので、近くにテーブルを置くほうが、都合がよかったのだろう。似たような生活だったのかしらと想像してみる。


 一階には、写真や年表などの資料が展示してある。まずは入って右手の部屋から見てまわった。下宿先の親戚が撮った、太宰のスナップをじっくり見た。まめな人で、写真もきれいに保存してあったという。ぜんぶで十二枚ある。芥川のポーズを真似て写ったものもある。中年期の、物憂げに頬杖をついている写真が有名だが、十代の太宰、もとい津島修治だったころは、明るさやひょうきんさが、まさっている気がした。太宰は陰鬱な作家とばかり思っていたが、旅行を機に作品を読んで、考えを改めた。読み手を喜ばせたいという気持ちが、とても強い作家だ。読者が喜ぶと思ったら、どんな道化でも演じてみせる。


 一度すのこに降りて、反対側に渡った。太宰が通った弘前高等学校についての展示がある。弘前に来て、はじめて林檎を食べた学生もいたらしい。私は東京に帰るときに林檎を買ったが、あれを最初に食べたら、ほかの林檎はもう林檎と思えないだろう。


 二階には、太宰が与えられた部屋がある。階段はかなり急で、踏板の幅も狭い。手すりにしがみつくようにして上った。スタッフの男性は、私からすれば、信じられない速さで降りてきたことになる。


 部屋に入ると、いちばんに窓が眼についた。手前に障子があり、奥がガラス戸になっている。古いガラスをそのまま使っているらしく、景色がわずかに波うっていた。紅葉した庭木がよく見える。風が吹くたび、ガラス戸が音を立てた。強風の夜はうるさくて、とても眠れないだろう。


 鴨居に、数式を書いたあとが残っていた。とがったもので削ったらしく、角度によって、見えやすかったり見づらかったりする。太宰の落書きだ。当時の男性にしては身長が高く、一説には一七五センチほどあったといわれる。鴨居は、落書きにちょうどいい高さだったのだろうという解説があった。


 この部屋でも、自殺未遂をしたことがあったという。


「中学のときから睡眠薬飲んでたっていうよ」


 母が言った。作家の人となりについても、旅行のまえにかなりしらべていた。太宰の周りにいた人の著作も、いくつか読んだらしい。


 さきほどの男性にあいさつして、まなびの家をあとにした。


 弘前には、古い建物がいくつか残っている。弘前公園の近くにある、旧弘前市立図書館もそのひとつだ。白い外壁に、赤いドーム型の屋根が可愛らしい。館内は土足厳禁だったので、スリッパを借りた。木造三階建で、三階は立入禁止、二階は一度に十五名まであがれる。あまり重さがかかると、床が抜けるのかもしれない。二階にあがる階段は螺旋状になっていた。靴下がすべって、スリッパが脱げないように上り下りするのがむずかしい。何度か、足裏がつりそうになった。


 婦人閲覧室という部屋があった。明治時代の作家、樋口一葉の日記には、図書館に行き、婦人閲覧室で本を読んで勉強したという記述が繰りかえし出てくる。男女で同じ部屋を使うことが許されなかったのだ。当時は女性で図書館を訪れる人はめずらしかったのか、帰りぎわ、閲覧室にいた女性とおしゃべりしたエピソードもあった。


 館内は資料館も兼ねている。青森県内にある文学碑を挙げたパネルを見つけた。ほかの作家はひとつずつなのに、太宰治だけ、七つある。


 旧弘前市立図書館の裏に、弘前市内にある歴史的建造物のミニチュアが野ざらしで飾られていた。地図を見たところ、弘前駅に向かう大通り沿いに、立派な店構えの呉服屋などがあったらしい。長く手が入っていないのか、旧市役所のミニチュアは、左側の外壁が崩れ、傾いていた。たとえミニチュアであっても、どうか長くもってほしいものだ。ほんものの建造物のほうは、もはや半分も残っていない。

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