2029.12.31 19:00 Nagano,Japan
ナガノ市の中心部からやや離れたマンションでも、全ての住人が『知恵の使徒』を名乗る少女の報告を聞くことを余儀なくされていた。
およそ5分の説明が終わり、少女が消えた後、マンションは元の年末を取り戻す。
しかし、そこにいる者は誰も落ち着いていられない。
303号室で双子の姉とともに住む
一体、何が起きたのだろうと思った彼が向かう先は、多くの者と同じ……ネット上の情報交換スペースたるSNSである。
SNSでは「何が起きたんだ?」、「世界の終焉なんて本当にあるのか」という話が飛び交う一方、真空崩壊について調べた者が「こういうことが起きるらしい」と説明していた。
真空崩壊というのは物理理論の仮説で、ヒッグス粒子という素粒子に起きうるものらしい。
現在の宇宙ではこの粒子が不安定な状態で真空を形成しているらしく、それが何かのきっかけで本来の真空に移った場合に高エネルギー反応を起こして世界を崩壊させるほどのエネルギーを発生させるとともに、宇宙の定理が変わるという。
宇宙の定理が変わるということは、物理法則が変わるということであり、時間、空間といった存在さえも異なったものとなる可能性があるそうだが、真空崩壊が地球で起きた場合にはそんなことを気にする必要もない。
その場で地球の全生命が失われるほどのエネルギーが発生するからだ。
「……正直、理解できないや」
悠は、説明文を読んで
17歳、この春に高校3年となる彼にとってはさすがに難しすぎる話である。
彼は事態の理解を諦めて、隣の部屋にいる姉・
「姉さん、大丈夫?」
「大丈夫よ」
閉じたドアを開いて、姉が出てきた。
「いきなり周りの端末やラジオが同じことを言い出すものだからびっくりしちゃったけど」
そう言って、クスッと笑う。
唯は極度の近視で、どれだけ矯正してもほんの僅かな光くらいしか捉えることができない。だからモニターに映る少女は分からなかっただろうが、周囲の各端末がいきなり同じ少女の声で語りだしたのだからよりびっくりしただろう。
ここで悠は、先程の報告を聞いていた時に抱いた違和感を口にした。
「姉さん、知恵の使徒を名乗った女性の声、聞き覚えなかった?」
「えっ? どうだろう……」
突然の問い掛けに唯は戸惑っている。
「内容にびっくりしていて、はっきり覚えていないけれど悠ちゃんは聞き覚えがあるの?」
「……いや、そんなことがあるはずはないんだけど……」
何かしら思い当たるものはあるようだが、姉の知らないという言葉に自信をなくしたようだ。
姉は目が見えない分、聴力や嗅覚は自分より優れている。その姉の聴覚をして聞き覚えがないというのなら、自分の勘違いかもしれない。
悠はそう考えたのだろう。その後、違和感について話すことはなくなった。
そうこうやっているうちにニホン政府の緊急放送が始まった。悠もそれを眺め観る。
政治家に対する風当たりは常に強いが、さすがにこの年の瀬という中、不測の事態で呼び出される人達には同情してしまう。
しかも、彼らは総じて、いや、彼らも全く何も分かっていないようだ。
そもそも、いきなりニホン中全てのディスプレイに同じ少女が映るという事態になったのだ、ただ事ではない。
しかし、敵対国による妨害工作などではないらしい。
何故なら、それは世界中で起きていたらしいからだ。
『報告に寄りますと、同じ事態はアメリゴ、チュウゴクをはじめ世界のあらゆるところで起こっているとのことです。ですので、敵対国による活動とかそういうものではありません。ただ、我が国を含む多くの国において全ての通信が何者かに乗っ取られたことは由々しき事実でありまして、現在、専門家チームを組んで対処にあたらせているところであります』
非常にあいまいなものだ。当然、追及が来る。
『先程の話では7時には世界が崩壊するということですが、それまでに対処できるのでしょうか?』
『とにかく、急ぎ対処させております』
答弁は頼りなく聞こえるが、世界中の端末を乗っ取ったとなると、途方もない事態である。
世界の終焉もそうだが、宇宙人でも関与しているのではないかと考えたくなるような事態だ。
「アメリゴやチュウゴクでも同じことが起きたんだって。信じられないよね」
想像すらできないことなので真剣に考えていても仕方がない。
悠はしばらく呑気に語っていた。
しかし、いよいよ時間が残り20分を切ってくると、落ち着かなくなっている。
知恵の使徒なる者の言うことが本当であれば、これから世界は消滅するというのであるから。
「消滅した後、ラグナロクチェンジャーが働くというのは一体どういうことなんだろう?」
SNSでも最大の疑問はそこにあるようだ。
物理に詳しい者は全員、「真空崩壊という事象が一度起きたら、やり直すことは不可能である」と主張している。しかし、知恵の使徒は、ラグナロクチェンジャーが働いて世界は救われるのだと言う。
ということは、物理の原理を超えた何かが起きるということだろうか?
時間は6時55分を迎えた。
平常であれば、年の瀬が更に近くなるし、かなり縮小されたとはいえ、日本で最大の歌合戦がテレビでオンエアされる時間だ。楽しみが増すはずであるが、SNSを見てもそんな雰囲気はない。「一体、これなら何が起きるのか」、「本当に起きるのか?」というような不安に満ち溢れている。
緊張感がどんどん高まっていく。
年末年始特番のライヴ番組に合わせてみても、出演者も番組に集中できていない。時計がありそうな方向をチラホラと確認している。
それはもちろん、悠も同じだ。
こうなると、目がほとんど見えない唯の方が気楽かもしれないと思う。
18時59分になった。そこから更に時間が進む。
時計の秒針が58、59を差し、遂に19:00となった瞬間。
瞬時にして、それは起きた。
目に見える全てのものが眩いばかりの光に包まれ、次の瞬間、その光があらゆるものを押しつぶしていく。
「姉さん!」
悠は手を伸ばそうとしたが、届かない。
「ゆ、悠ちゃ……」
消え入るような声とともに姉は光にかき消されてしまった。
後には何も残らない。
「姉さん! 姉さん!!」
悠も懸命に消えてしまった姉の方に手を伸ばしたが、まぶしくなる一方の光に圧倒される。
何らかの幻覚か、あるいは明滅か。光が消えたり、押し寄せたりを2回繰り返した。
それと同時に光に潰される姉、部屋、人、国、世界、地球の情景が次々に悠の思考の中に、覆い尽くすように押し寄せてくる。
「やめろ! やめてくれ! うわぁぁぁ!」
全てを飲み込んだ後、光が悠にも押し寄せてきた。
(あぁ、僕は死ぬのか……。姉さんと共に……)
その思いを最後に、悠の意識は消失した。
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