『満月の夜に吹く風は』

ゆげ

第一話 ひとりぼっちの帰路

 その夜は見事な満月だった。

 やっとの思いで残業を片付け、くたくたの体を引きずるように帰路につく。ふと弱弱しい鳴き声が聞こえて、あたしは辺りを見回した。道端にメロンパンが落ちていた。

 そう、あのメロンパンだ。パン生地の上に甘いクッキー生地をのせ、表面にメロン

を模した格子模様がつけられた――あの。


『にゅうぅ……』

 

 メロンパンは情けない声で鳴きながら、ふるふると震えていた。


 

 地球上には多くのパンが生息する。

 彼らが何なのかは解明されていない。隕石が落ちた場所から出てきたのを見たと言う人もいれば、ジャガイモのように地中から収穫したと言う人もいる。またある人は木の枝に実ってぶら下がっていたと言い、空を舞って降りてきたのを見たという話もある。

 どこからやって来たのか、どのように誕生するのか、何もわかっていないけれど、少なくとも彼らが人間に害を及ぼすことはないと近年の研究で証明されている。どのパンも噛みついたり攻撃したりすることはなく、驚くほど穏やかで人懐っこい性格だという。

 空前のペットブームが続く中、メロンパンは特に人気だという話はあたしも耳にしたことがある。

 丸くて可愛らしいフォルム、控えめで大人しい性格、何より初心者でもお世話がしやすい――と、もう長いことホットドッグを飼っている従兄弟が言っていた。

 

 

 この子は野良なのだろうか。

 よく見ればクッキー生地はひび割れてところどころはげ落ちている。相当弱っているらしい。丸く縮こまるその姿を見て、胸の奥がちくりと痛んだ。

 そのまま見ぬふりをして通り過ぎることもできたはずなのに、自然と足が止まってしまったのはなぜだろう。社会人一年目にしてすでにぼろぼろの自分の姿と重ねてしまったからなのかもしれない。


 新人は定時より一時間早く出社して、デスクを掃除したりコーヒーを準備するのが当たり前だった。上司はすぐに怒鳴り散らかす人で、エクセルの使い方すら覚束ないあたしは、ミスを恐れるあまり手が震えたこともあった。

 ランチはシリアルバーで手軽に済ませ、休む暇もなく作業を続ける。目の前にはさばききれないほどのタスクが山積みで、ひとつひとつこなすことで精一杯だった。帰り道のコンビニで買った値引き済みの弁当をお腹に詰め込み、布団に倒れ込むように寝るだけの生活。

 あたしは何がしたかったのだろう。何かに心を向ける余裕なんてずっと忘れていた。何をしても楽しいと思えず、自分が何を好きだったのかすら思い出せなくなっていた。


『にゅ……ぅ』

 

 か細い声に我に返ると、助けを求めるようにメロンパンがあたしを見上げていた。

 そっと手に乗せる。手のひらにすっぽりと収まるサイズの小さなメロンパン。すりすりと体を摺り寄せてくる、メロンパン。

 それはもう、可愛かった。ささくれだった心がほっと癒されていくようだった。

 そのまま置いていくなんてことはできるはずもなく、あたしはメロンパンを連れて帰ることにした。

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