コール・コール
毎月、電気代を払っているのに、明かりが消えました。
少年は椅子に乗って電球の調子を確認しましたが、悪いところはないようです。
左右に揺れるランプからハエの死体が落ちると、少年は椅子から飛びおり、手のひらに拾いあげました。
「ちいちゃい」
少年はつぶやきました。吹けば飛ぶほどに軽いハエは、もとから肌の一部だったかのように皮膚になじみます。
「ぼくら、このまま暗闇に消えちゃうのかしら」
ハエはだんまりでしたので、かわりに沈黙そのものが少年に返答しました。
「だれかに聞くがよろしいでしょう。たのむがよろしいでしょう」
「どうして? ぼくは自分でも決められるのに」
少年は不満でしたが、すぐに気を変えて従うことにしました。
実際、自分ではなにも決められないのです。
今日の夕飯も、着るものも、どの窓をあけておき、どのカーテンを閉めるのかも、意思を固められないのです。
そうなってしまったのは、すべて少年のせいだと、みんなは口をそろえて言います。
急に腹がたってきた少年は、玄関先のタンスに置いた固定電話を取りました。
受話器を耳に当てて、いまかいまかと待っていると、三十センチだけ開いたカーテンのすきまから、さまざまなものが訪れます。
午後五時を伝えるチャイムの音、赤黒い金星、公園で遊ぶ子どもの叫び声、そして電波がやってきます。
外界とのつながりについては、大家が決めたのです。
親切な彼は親戚でもなんでもない哀れで臆病な少年に、そうしなさいと指示をくれました。
「コール」
少年が呼びかけると、電話がつながりました。
「どうしてマンマはぼくを無視したの?」
「頭がおかしいからさ」
「外が見たかっただけなのに?」
「電車の窓をあけるからだよ。母親の立場になれば、頭のおかしな子どもが自分の腹から生まれてきたなんぞ、ウンコを見られるよかはずかしいだろうね」
少年は笑いました。受話器は黙りました。
「コール」
少年は楽しそうに続けました。
「どうしてミッコちゃんは泣いたんだろう?」
「バカだからだよ。バカはいつも、はなを垂らして泣く」
「違うよ。ミッコちゃんはバカじゃない。作文コンクールで賞をとったもの」
ミッコちゃんは、すばらしい女の子です。
毎朝、お母さんに長い髪の毛を結ってもらっています。
それは複数のおさげを後頭部に巻いた髪型で、ピンクのリボンをたくさん飾るので、少年はいつもブタの腸を想像するのです。
ミッコちゃんは飼育係で、校庭のすみにある動物小屋のうさぎにエサをあげる役割です。
ですが、そこは休み時間にわざわざ足を運ぶには遠い場所で、しかも大変におうので、彼女は週二回の当番をさぼりました。
ある日、ウサギが死ぬとミッコちゃんは泣きました。
その小動物が心の底から好きだったのです。
「ブタみたいだねえ」
少年はミッコちゃんの後頭部に言いました。家に帰ると、受話器をにぎったマンマが少年を抱きしめました。
「あなただって作文コンクールで賞がとれるよ」
そう言うと、犬みたいにわんわん受話器へ吠えました。少年は、非常に困りました。そんな日が来るわけはないからです。
少年は受話器を置き、タンスから原稿用紙を取りだしました。
そこには緑色が渦を巻いています。
少年は渦しか書けないのです。
それは、おはようございますという意味。
そして、先生の声です。
「さようなら、みなさん」
先生が明るく挨拶をし、手を振って別れを告げると、少年はいたたまれなくなりました。
原稿用紙はみずから四つに折れ、引きだしに隠れてしまいます。
だれとも話したくありませんし、姿を見られたくないのです。
少年は目頭にぐっと力をこめました。
みじめな人間は悲しんではいけません。怒ることは平気ですが、泣いてはいけません。
その瞬間に地面に叩きつけられて、溶けて消えて踏みつけられ、存在を消し去られてしまうでしょう。
そうです。
少年は、自分を監視する存在に気づいていました。
そいつは二十四時間三百六十五日、駐輪場に座りこみ、カーテンのすきまから少年を見はっており、毎日携帯で報告するのです。
少年の生活、少年の思想、少年のすばらしさ、少年の悪事。
つまり、ウサギを殺したこと!
それらを、ぜんぶぜんぶぜんぶ世界に拡散しているのです。
生活をのぞかれるなんて、いやでたまらないのですが、カーテンをあけておかなければならないのです。
大家は、こう説教しました。
「そうしなければ、きみのような人間は生きてはいけない」
「ぼくのような人間は」
少年はしゃっくりをして、子機を取りました。
「コール」
電話を取ったのは黒い手です。
「見せかけを知らないのだから、ましな人生だ」
黒い手はなぐさめを言いました。
少年は彼が大嫌いです。
いつも偉人ぶって居心地のよい椅子に座っているのに、なにかと少年をかまいたがるからです。
「はだか一貫で泥水を泳ぐのだ。つらいだろうが、他のやつらがプールの塩素にむしばまれるあいだ、本物の生を謳歌できる。きみは文明によって失われた、ごく自然な人間性を育むんだよ」
「ごく自然な人間性だって!」
白い手が現れ、横やりを入れました。
「この子の天涯孤独を、そんな無責任な言葉でかたづけるのかね。共感性の欠如、破壊された人間関係、いまや自分を見る眼球すらも失いかけているのに?」
「自然を生きる生物が内省するものか。眼球は不必要だろう」
「この子が人間ではなく動物だとでも?」
白い手は怒り狂い、暴れて、子機を叩きおとしました。
拾おうと身をかがめると、ひどいめまいがしたので、少年はしゃがみこんでタンスの木目を見つめました。
黒と白の手は、自流を携えてやりあっています。
いわく、純粋文明人間共感他者と自己。
少年には、よくわかりません。木目の数をかぞえるだけです。
なにがどうあろうと、電話をかけないといけないのです。
少年は疲れた顔で、子機にささやきました。
「コール」
「だれかがくるぞ」
ぎくりとして身を縮めます。
たしかに、階段をあがる音が聞こえてくるのです。
少年は、まだ言い争っている黒い手と白い手をタンスにぶつけて殺し、真っ赤な両手を組ませてドアノブに被せました。
少年は祈りました。羽が生えて、遠くへ飛んでゆけるように。
しかし、足音はどんどん近づいてきます。
部屋の奥に隠したものが暴かれる日が、とうとう来たのです。
心のうちで神さまへ呼びかけますが、応えてはくれません。
きっと、彼はバラバラの体を発見して少年を責めるでしょう。
おまえがなにもかもすべて悪い。
彼は言うでしょう。
おまえをあいしている、と?
耳をふさぎます。ふともものしびれを感じながら、じっとノックを待ちます。
しかし、彼はためらっているのでしょうか。どれだけ待っても、その瞬間はやってきません。
長い時間がたちました。
少年は足のしびれがこらえきれず、立ちあがりました。とてもくたびれていました。
こわごわとドアスコープをのぞき、肩を落とし、おっくうそうに子機を拾います。
カーテンを開くと、よく晴れた朝が、そこにありました。
隣の部屋の戸をあけると、たたみの上で、首を包丁でかき切ったマンマが死んでいました。
その横に、原稿用紙を握った少年が体育座りをしており、癇にさわる声で作文を読みあげました。
「産んでくれてありがとう」
子機を片手にした彼は少年をけり飛ばし、なぐりました。
なんとまあ、むかっ腹のたつ奴でしょう。
これまで出会ったなかで、一番みにくくバカな子どもです。
すっとんきょうさ、無感情さ、まるで、できそこないのロボットと会話をしているみたい。
なんども頭をなぐりました。顔をなぐり、腹をなぐり、腕を踏み足を踏み、髪を引きちぎり、耳を引っぱり、両目に人さし指と中指を突きつけて、やめました。
彼は少年を引きずり、マンマの上に投げおとしました。
マンマは、両目を見ひらいて泣いていましたが、少年が上に乗ると顔をしかめました。
「重い」
文句を言い、目を閉じました。
彼は黙ってそれを見ていました。
子機に声をかけます。
「コール」
すぐに電話がつながりました。耳になじんだ声が「はあい」と、返答しました。
「そういえば、ぼく明日が誕生日なんだ」
「うそ、なんで教えてくれなかったの?」
予想通り彼女は驚きました。
うわずった声が、いとおしいのです。
いとおしさとは、特に意味がないのだとしても、大切なものに違いありません。
それが冷蔵庫のバターと同じくらいの大切さだとしても。
「あんまし、生まれてきてよかったと思わないからね」
「冗談でしょ?」
「うん」
彼は子機を床に投げすて、彼女が急場で用意してくれた誕生日ケーキを食べに部屋を出てゆきました。
おそらくプレゼントはありませんが、それでよいのです。
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